神の望まれるのは、皆さんが変化すること、つまり心の変化、性質の変化、そして、やがて生まれながらの人間を完全に捨て去ることです。
必要に応じて翻訳を修正します。何かご提案があれば、speeches.jpn@byu.eduにご連絡ください。
土曜日の午後の総大会で、会衆が賛美歌を歌っていた時に、ゴードン・B・ヒンクレー大管長を見て、感動しました。彼は振り返り、BYUの聖歌隊をずっと見つめていました。ほんの一瞬見たわけではありません。彼はそこに立ち止まり、じっと見つめていました。それは、まるで一人一人の生徒を観察し、詳しく見ているかのようでした。ヒンクレー大管長は主の預言者です。彼はBYUの学生の皆さんがどのような人となるか知っています。皆さんの善良さを知っています。皆さんの偉大な可能性を知っています。主の預言者が皆さんを頼りにしていることにとても感動しました。
どのようなところで教えるにしても、それは特権ですが、特にBYUで学習への愛情と仲間への愛と光に満ち溢れた学生に教えるのは、教授の私にとってこれ以上のものはありません。ですから、今日は変化についていくつかアイデアを提供したいのですが、けっして変わってほしくないものもたくさんあります。それは何かと言えば:
- 皆さんの善良さ、善良な心を変えないでください。
- この国の他のどの大学の学生よりも優れていることを変えないでください。私はそう信じています。本当だからです。皆さんは驚くばかりに素晴らしいです。不完全ではありますが、それでも驚くバカラに素晴らしい存在です。
- みなさんのその目の輝きを変えないでください。
- お互いに助け合いたいという気持ちを持ち続けてください。私もルームメイトや家族との悩みごとを聞きますが、お互いにつながりたいという思いが叶わないことから苦しみが湧いてきます。
- 主への愛を絶やさないでください。
- 一見不可能に思えることを実行に移す勇気を変えないでください。
- 改善し続けたいという気持ちを萎えさせないでください。
- 変わりたいという意欲を萎えさせないでください。
それでは、変化についてお話しましょう。私は変化が大好きです!本当に大好きなのです。喜んでそのことをお伝えします。変化に熱意を感じています。実のところ、変化に夢中なのです。私は仕事において変化にのめり込み、個人的にも変化に夢中です。仕事において、変化を起こし、その方法を研究しようとしています。そして、変化に加わるのが大好きです。個人的には、変化を提唱し、変化を求めており、そして、変化に畏敬の念を抱いています。
個人的にも仕事においても、私は変化の探偵です。他の誰かが「変化はない」、または「変化は不可能だ」という状況を発見したいのです。
25年の間、変化を求める人々、つまり「顧客」と呼ばれる人、カップル、家族など、変化を求める人々と一緒に仕事をする機会に恵まれてきました。彼らは自分の人生で何か違うことを望んでいます。
いつから変化を好きになったのかはわかりませんが、私の人生で最初の大きな変化の1つ、三輪車から自転車に乗り換えた時のスリルを今でも覚えています。父が自転車の後方部分から手を放し、並走しながら私を支えていないと分かった時の不安な気持ちは、すぐに爽快感に代わりました。私は一人で自転車に乗ることができました。砂利道で何度かぐらついた後、一人立ちし、さらに遠くへ、速く行けました。私の世界は急に大きくなりました。
私はこの変化が好きでした。そして、この変化に伴う爽快感も好きでした。変速ギアが変わると、スピードと探索できるものが変わり、自分自身の見方さえも変わりました。もう大人になった気分でした。少なくとも、私はそう思っていました。そして、私はその変化が大好きでした。
私が三輪車から自転車に乗れるようになったのは、ただ車輪が減ったというわけではありません。それは、私の人生において前進するという意味がありました。それに、父は私が思っている以上に速く進むことができると信じていたことを認識する意味もありました。今まで試したことのない、新しいことを受け入れたのです。自転車に乗る感覚は、三輪車に乗るのとは全く違いました。まるで空を飛んでいるような気分でした。
二輪の自転車から、真っ新な青い二輪のホンダ50㏄のバイクに変わった時、天にも登る気分でした。私は空飛ぶようなマシンの半額を支払いましたが、交通手段の変更に伴って、私は人生にさらに大きな責任を負うようになりました。この変化は、自信の高まり、危険性の増大、可能性の拡大などをもたらしました。これらは全て、変化というすばらしい世界の一部なのです。
私の青いホンダ50㏄のバイクは、別の世界、つまり男性の世界を私に開いてくれました。赤いスズキを持った青年と出会ったのです。赤いスズキと青いホンダ。これは真の、永遠の愛だったに違いありません。少なくとも夏の間はそうでしたが、いつか気持ちが変わってしまいました。
変化が私の人生に無理矢理入り込んできたように思える時もありました。私が9歳の時、弟のデイビッドが秋学期の初日、9月1日に生まれました。放課後、私はデビッドのポラロイド写真を両手に握りしめ、近所のドアをノックし、彼らに生まれたばかりの私の弟の写真を見たいか尋ねて、町中を歩き回りました。しかし、家に帰ったら、物事がいかに早く変化するかを思い知りました。デビッドはたった8時間半しか生きられずに亡くなりました。まったく予想していない変化でした。しかし、その変化に際して、その日の午後、祖母が私の部屋で死後の世界について話してくれたことで、私の生と死に対する理解が変わりました。生まれたばかりの弟の死という現実にあって、永遠の命が何なのかをさらに知り、人生に対する私の新しい理解は、この予測不可能な出来事による苦しみ、9歳の私の心の痛みを少しずつやわらげてくれました。
変化を期待していたのに、何も起こらなかったこともありました。 例えば、結婚とともに姓が変わるのを予想していた時です。私は「僕と結婚してください」と尋ねてきた何人かの男性に「喜んで」と答えました。それに、その時は本当にしたかったのです。しかし、残念なことに、私は主の御心を求める前に、彼らに返事をしていました。しかし主の声を聞いてから、私は主の助言に従い、彼らとお別れをしました。それ以来、私は早い段階から主の声を求めるようになりました。
皆さんがこれまでの人生で経験した変化はどのようなものでしたか? 変化を受け入れた、または予測した通りの変化はありましたか?期待していたのに実現しなかったことはありましたか?思いもしないことが起こったのに、最終的に素晴らしかった変化はありましたか?または、突然の出来事に、素直になれないような出来事がありましたか?
変化は常に起こっています。変化は私たちに多くのことを要求し、私たちを変えます。皆さんは人生において変化にどう反応してきましたか?突然起こった、素直になれないような経験を思い出してください。どのように対応しましたか?主に近づいたか、背を向けたか、どちらでしょうか?
私は、このような困難な状況に置かれた多くの人々の反応を観察する機会に恵まれました。いくつか考えてみましょう:
- ある父親が自殺をしました。その娘は神に対して怒り、主と父親が自分を見捨てたと信じ込み、神に背を向けます。
- 夫が姦淫を犯しました。夫も妻も、慰めとつらい疑問への答えを探して主を求めます。
- 母親がなくなりました。その息子は回復された福音に背を向け、神に対する昔の見方と以前の宗教に 戻ります。
- ある女性は自分の人生に変化の訪れを感じています。しかし、その変化がくると思ったとき、思うようには来ないので、主に心を向けて、まだ全て大丈夫なのだという確信を求めます。
- 親友が自分の婚約相手と結婚します。この変化によって、今までになかったほど主に向き直るようになり、大きな変化、まさに聖句のいうあの大きな変化をもたらします。
皆さんの人生に影響を与えた変化はありましたか?昔の格言を聞いたことがあるでしょう。「唯一確実なのは、物事が変わることだ」。皆さんの中には、これ以上、人生の変化には、耐えられないと言う人もいるかもしれません。もしかしたら、非常に短い間にあまりにも多くの変化を経験したのかもしれません。ひょっとして、伝道から帰ったある若者のような経験をされたかも知れません。両親が離婚をし、父親が教会から破門され、婚約者がお別れの手紙を手にして迎えに来て、専攻したいクラスはすべて満員、予定していたルームメイトは引っ越すことになり、働く予定だった会社が倒産してしまいました。(実話)そういう変化が一斉に起こるとき、主と主が遣わしてくださる人の助けなしでは、耐えつづけたり、進んだりが、かなり難しくなります。このような変化は、霊的な安定と平安さえ脅かすかもしれません。
逆に皆さんの中にはこう言う人もいるかもしれません:
「人生に変化〔小銭〕がもっとあってもいいな。まずは、学期のこの時点で数セント残った銀行口座に入金を始めよう」〔T.N.:英語の「Change」には「変化」と「小銭」という二つの意味があります。〕
「変わった景色もいいかも。山をただ見上げるだけじゃなく、山に登ってみよう。」
「活動の変化もほしいなあ。勉強はもう疲れた。」
そして、もしかしたら自分のことではなく、数週間後に成績を決める教授の心の変化を祈っている人もいるかもしれません。
今の時点で、どんな変化が生活に最大の影響をもたらすと思いますか?考えや、行動、感情の変化はどうでしょうか?人間関係の変化を望んでいますか?それとも結びつきを持てるような変化を願っていますか?自分自身に対する見方を変えたいですか、それとも人が自分をこう見ているだろうと思うその見方に変化がほしいでしょうか?能力や、資質の変化でしょうか? それとも、自分の本質の変化、あるいは心の変化を最も望んでいますか?
変化や変化に対する思い込みに私たちは囲まれています。ある人々は、変化はまったく望ましくない、または完全に絶望的な追求であると信じています。「濡れたオムツ赤ん坊しか変化を好まない」とバンパーステッカーがあざ笑います。「物事が変われば変わるほど、同じままだ」とフランスの格言がなじります。(Jean-Baptiste Alphonse Karr, Les Guêpes, July 1848 [278], also January 1849 [305])。
毎年同じことを友達に愚痴っている自分に気がつくとき、毎年同じ新年の抱負を決めているのに気がつくとき、憎らしい体重計が「まだ4キロ肥満」と当てこするときに、変化なんて存在するのか、あるいは、真の変化は本当に可能なのか迷うかもしれません。しかし、私の教授体験、臨床経験、そして研究の経験から、人は変化を望んでおり、実際に変わっていることがわかります。さらに重要なことは、変化は常に起こっているということです。
信念と変化
では、変化はどのように起こるのでしょうか。
家族を研究していて、問題の核心にある信念が特定され、試され、または固められた時に癒しの変化が起こると私は思うようになりました。(Lorraine M. Wright, Wendy L. Watson, and Janice M. Bell, Beliefs: The Heart of Healing in Families and Illness(信念:家族と病気の癒しの核心) [ニューヨーク: Basic Books, 1996]) 。
古代ヘブライの伝統では、心には思考する能力があるとされていました。私は心が生み出した思考、思考、感情、行動に影響を与える感動にあふれる認識―心の奥底にある信念を特定したり、試したり、固めたりしたいのです。
それは重要な信念です。問題の核心にある心の信念です。これらは、変化をもたらすテコとなる最も貴重な信念です。核心となる信念であり、変化を制約したり、もたらしたりします。変化をもたらす信念は、問題解決の選択肢を増やします。反対に変化を制約する信念は、解決策の選択肢を減らします。
変化を阻む束縛的な思いをいくつか挙げましょう。
- ある夫婦は、不倫の最中に傷ついた心を守るために、何年も壁を築いていたことがお互いを疎外させていました。彼らは、なぜ結婚生活でこれほど孤独と不満を感じるのか悩んでいました。二人を虜にし、お互いを最も必要としている時に手を差し伸べるのを妨げていたのは、「私は愛嬌がないし、愛を受けるのにふさわしくない」という束縛的な信念でした。
- 怒りに支配され、妻や子供を虐げていたある男性は、「私がすべての真理と光の持ち主だ」という信念を抱いていました。この束縛的な信念は、彼の人間関係に欲求不満、怒り、そして不義の支配を招きました。
- 生涯にわたるポルノとの戦いで助けを求めていた青年は、「私は弱い」と信じていました。
- あるカップルは、何年にも渡る沈黙と苦しみの後、お互いと新しい関係を築く方法を見つけるのに苦労していました。二人はそれぞれ誤解され、十分に認められていないと感じ、「伴侶が私の気持ちや、この結婚生活における私の経験を気にかけていない」と信じていました。
- ある年、100万ドルの宝くじを当て、その翌年の大晦日に自殺した男性の妻は、「夫の死は私のせいだ」と信じていました。
いずれの場合も、これらの制約的な信念は解決策を見つけるのを妨げ、ほとんどの場合、解決は不可能だという非常に制約的な信念を招きました。自分自身、他人、または人生に対するどのような信念が人生に変化をもたらす第一歩を妨げているのでしょうか。
一貫して変化を制約する信念の一つは、「正しい見方は1つだけで、それは私の見方だ」という信念です。自分のアイデアに情熱を注ぐことは、おそらく素晴らしいことです。自分のアイデアを他の人に提供し、相手が自分とは異なるアイデアを持つこともあると理解することは、和気あいあいとした議論の土台であり、うちとけた議論につながることさえあります。しかし、自分の思いに合うように人に考えを変えろと要求することは、ただの要求というよりも、悪魔の行為です。
ハワード・W・ハンター大管長は、1989年10月の総大会で、他の人々に影響を与える主のアプローチについてお話しました。
神が用いられる方法は、説得と忍耐と寛容によるものであり、強制やあからさまな対立によるものではありません。神は穏やかに勧め、優しく促されます。神は常に私たちの自由意志と独立を尊重しておられます。「黄金の選択の糸」「聖徒の道「1990年1月号、18参照」。
私たちの賛美歌の一つは、これと同じ真理を音楽で表現しています。
神は呼びかけ、説得し、正しい道に導き、
知恵と愛と光を祝福してくださる
数え切れないほどの恵みを与え、愛を示してくださる
しかし、神は決して人に強制なさらない
“Know This, That Every Soul Is Free,”「賛美歌「(英文)、1985年、240番
誰かの考えを変えることはできません。しかし、誘い、誘導し、提案し、説得することで、相手が選択したことを尊重することができます。
反省をうながし変化をもたらす
臨床研究を通じて発見したのは、私たちが反省するように招かれた時に、変化は一番起こりやすくなるということです。反省のプロセスを通して、私たちはまったく新しい見方で自分自身や他人をさらによく知ることができます。
アルマ書を読むと、アルマは変化に意欲的で、他人に反省をうながす技術の専門家だと感じます。人が変わる可能性を高めるような反省なのです。
アルマはどのようにして変化をもたらすような反省を促すのでしょう?一つは、質問の仕方です。アルマ5章だけでも、次のように40問以上の質問を提唱しています。
あなたがたの顔に神の面影を受けているか。あなたがたは心の中に、この大きな変化を経験したか。」
もしあなたがたが心の変化を経験しているのであれば、また、贖いをもたらす愛の歌を歌おうと感じたことがあるのであれば、今でもそのように感じられるか尋ねたい。[アルマ5章:14,26節]
アルマは、絶え間ない問いかけの過程を通して、主に対する自分の立場、霊的な成長、変えるべきこと、または変化を遂げたことについて、何度も振り返るようにと私たちを招いています。そして気がつくと、変わりたいという意欲も大きくなっています。
今度、反省の素晴らしい経験をしたいとき、つまり変化するように招かれ、導かれているように感じたいとき、「このままでいい」、または「私には変わる余地がない」という自分の姿勢をなくしたいとき、アルマ5章を何度も読んでください。自分自身に対する考えと変化の可能性がアルマの粘り強い質問の仕方を通して、いかに変わるか注目してください。私はアルマが大好きです。私は彼の変化に対する献身を愛します。反省を促す質問の仕方が大好きです。
もしかすると皆さんは最近、心にひっかかっている多くの疑問によって自分自身を反省するようになっているかもしれません。皆さんはどんな質問を自分自身に問いかけていますか?
感心するのは、クライアントがよく自問するのは以下のようなものです:
- わたしはふさわしいのか?
- わたしの罪は赦されたのか?
- 私は主の前に清いのか?
彼らは、このような分野で失敗すると、他のいかなる変化でも補えないことを知っています。
どんな反省が自分自身や他人を違った角度から見えるようにしますか?変わりたいという望みを強める見方とは?
ある夫は、妻と私とのセラピーセッションで録音したオーディオテープを聞いたとき、反省するように促され、目が覚めるような経験をしました。彼女が彼にテープを渡したのは、セッションで自分の核となる信念をいくつか明確にできたからです。そこには彼は妻を自分と同等に見ていないという彼女の信念がありました。彼女が結婚生活に貢献したことは、彼には何の役にも立たなかったという信念もありました。
彼は深い悲しみの中で私に電話をかけてきました。その悲しみは、妻の痛みを深く思い知って生まれたのです。
「ずっと知りませんでした。」「こんなに苦しい思いをさせてしまったことを。」
彼の声は、彼女の人生において権威のある声です。彼の言葉は妻の痛みを癒すこともあれば、さらなる痛みを誘発することもあります。
権威の声
皆さんの人生における権威の声は誰のものでしょうか?皆さんにとって重要な声は誰の声でしょうか?皆さんの人生の変化を制約するのは誰の声でしょうか?皆さんが望む変化を支持し、維持するのは誰の声でしょうか?今、皆さんの人生における権威の声は、本当の自分になるために助けてくれる声なのでしょうか?それらの声は、勇気を持って、心にあるがままに物事をはっきり伝えるように助けてくれる声でしょうか?その権威者の声は、皆さんの声や考えを聞き、人生で主の声に耳を傾けるように励ましてくれていますか?
それとも、叱責する声、嘲笑する声、または厳しい声でしょうか?さも賢そうに、「従順」は単純すぎる人生の姿勢だと呼ぶ声でしょうか?巧みに他人の悪口を言うので、自分の判断には何かが欠けていると思わせる声でしょうか?本当の自分から遠ざけてしまうような声でしょうか?心の声を押し殺し、あなたの声を静かな、細いものにする声でしょうか?
もし皆さんが誰かにとって権威のある声だったらどうしますか?そうであれば、皆さんがその人についてどう思っているか、また何を言うかはその人にとってとても大事です。皆さんは他人の人生を変えるような言葉の持ち主でしょうか?癒し、慰め、また励ましの言葉を喜んで他人に伝えますか?誰かが何を聞きたがっているか、すでに気づいていますか? その言葉を正直に、また心から言うために何を変える必要があるでしょう?
他人の人生における権威の声として、知らないうちに彼らの声を黙らせてきましたか?例えば、説教をしたり、自分の行動について長々と説明したり自己弁護をしたり、また、「どうしてそんなことをしたのか?」と尋ねて自己弁護の機会を与えながら、彼らの説明や謝罪を受け入れなかった事はありましたか?もし皆さんが誰かの人生において権威の声なら、同時に権威の耳でもあります。耳を傾ける必要があります。
耳を傾けてから、尋ねるのです: 「私がしたことや、他の誰かがしたことで経験した苦痛について教えてください。言ってください。詳しく話してください。」
質問をし、傾聴してください:「最近決心したことがあって、今感じている喜びがあれば教えてください。言ってください。もっと話してください。」
権威の耳を持つ人が、愛する相手の痛みや喜びを聞くときに、特別な癒しが伴います。変化が加速されます!
人間の権威の声は役に立ちますが、権威のある究極の声、すなわち御言葉そのもの、救い主イエス・キリストに取って代わるものはありませんし、そうすべきでもありません。暮らしの中で主の声を聞くために何をしていますか?主の声を権威の声として確立するために何をしていますか? 主の声は、皆さんの声を強め、特に言葉にできないことを話す必要があるとき、導きと勇気を与えてくれます。そして、私たちの中には、「愛しています」、「本当にあなたが必要です」「ごめんなさい」などを、他の人に「言葉にできないこと」があります。人生において主の声を聞くことを学ぶにつれて、皆さんはますます自分が本当に誰なのかを聞けるようになります。
毛虫と変化
ある子供の本では、イエローという毛虫がどのような人生を送ればよいかを探し求める話が描かれています。旅の途中で、毛虫は別の毛虫がガーゼのようなものに引っかかっているのを発見しました。そこで、心配した毛虫は、助けがいるか尋ねました。しかしその毛虫は、この状態を蝶になるプロセスの一部だと説明しました。
蝶という言葉を聞いて、毛虫の心が躍り上がります。「でも、蝶って何なの?」と尋ねました。
繭に覆われた毛虫は、説明します:「それこそ、君がなるべきものなんだよ。」
イエローは興味をそそられますが、少し反抗的になります。「毛だらけの虫しか見えないのに、どうして私やあなたの中に蝶がいるのを信じられるの?」
さらに考え、彼女は物思いにふけりながら「どうやって蝶になるの?」と尋ねます。
その答えは?「毛虫でいるのをやめようと思うくらい、空を飛びたいと思わなくちゃいけないよ。」(トリーナ・パウルス『ぼくらの未来 花たちに希望を』より [New York: Paulist Press, 1972], pp. 67–75。
このストーリーが本当に大好きです。
「どうやって蝶になるの?」
「毛虫でいるのをやめようと思うくらい、空を飛びたいと思わなくちゃいけないよ」。
では、空を飛べるように自分の何を捨てたいと思いますか?皆さんの魂は飛びたがっています!その魂は、前世での任務と大望を覚えています。自分の本当の姿、つまり自分がなると決意し、聖約さえ交わした姿になるために、どんな信念を捨てますか?
おそらくロレンゾ・スノー大管長の言葉が助けになるでしょう。彼はこう言いました。
イエスはこの世に来る前に、すでに神でした。にもかかわらず、その知識は取り去られました。彼はご自身のかつての偉大さを知らず、ここに来る前にどんな偉大な出来事を達成されたか私たちも知りませんが、私たちと同様に、使命や働きの偉大さや重要性を知らずに試練を乗り越えなければなりませんでした。[Lorenzo Snow, in First Presidency, President’s Office Journals, 1899–1901, 8 October 1900, pp. 181–82, Archives Division, Church Historical Department, Salt Lake City; cited in Truman G. Madsen, The Highest in Us (ソルトレイクシティ: Bookcraft, 1978), p. 9]
蝶という言葉の響きに心が躍り上がった毛虫のイエローのように、どのような素晴らしい言葉、繰り返されるフレーズ、高尚な思い、壮大な概念、記憶に残る人々、そして忘れられない場所が、最近、心を飛び跳ねさせますか?こういうふうに心が躍るのは、前世のつながりなのでしょうか?前世の人生を垣間見ているのでしょうか?
次の質問を自分に尋ねるときに、心と思いに何が浮かびますか?細胞と魂に何が起こりますか?「もし私がここに来る前に勇敢だったことや、前世の自分と今の使命や働きの偉大さや大切さを知らずにこの世で試練を乗り越えなければならないことを覚えていたら、自分の本当の姿になるために今どんな行い、感情、信念や自分の一部を捨てるだろうか?」
それはあまりにも大げさな信念に思えるでしょうか?それとも、その言葉に真実が込められていると感じますか? 神の勇敢な娘、息子として立ち上がって、輝くために何を捨てますか?
繭作り
毛虫のような生活様式を捨てる時が来たのでしょうか?自分のポテンシャルを生かさずに生きることを捨てる時が来たのでしょうか?空を飛べるはずなのに、地面を這いつくばらせる思い、感情、行動を捨てる時が来たのでしょうか?本当の自分が出てこられるように、上を向いて、過去の毛虫のような人生を離れるために繭を作る時でしょうか?
飛び立てるように、何を捨てますか?自分や主を実際に知るために、自分の罪、好きな罪でさえ捨てる覚悟はありますか?主に近づくために捨てられますか?不信仰の幕を裂くために、落胆、誘惑、悲しみ、苦しみを癒せる、自分のために用意された贖いの力を受けるために、罪を捨てられるでしょうか?
そして、助けとなるものは何でしょう?繭を作るのに助けとなるものは何でしょうか?アルマと彼の人生を変えた繭作りのプロセスを覚えていますか? 彼の繭作りには、数知れない罪についての悲惨な反省と、父親が教えてくれた、救い主の贖いに関する慰めの思い出が含まれていました。
アルマは心の底から主に叫びました。「おお、神の御子イエスよ、苦汁の中におり、永遠の死の鎖に縛られているわたしを憐れんでください」(アルマ36:18)。
今日ここにいる私たちの多くは、アルマに嘆願を促した苦悩に同感できると思います。そして幸いなことに、私たちの多くはアルマが経験し、表現した喜びをすでに経験しています。「おお、何という喜びであったことか。何という驚くべき光をわたしは見たことか。まことに、わたしは前に感じた苦痛に勝るほどの喜びに満たされたのである」(アルマ書36:20)。
皆さんはその喜びを経験していますか?それは、皆さんが本当の自分を思い出せる助けとなりますか?皆さんは繭に入っている神なのです!
主との連結構造
誰と一緒にいると本当の自分になれますか?自分の最も親しい仲間は誰ですか?誰と一緒に一番長く時間を過ごしていますか?そして、最も親しい仲間と一緒にいる時は、聖霊を常に伴侶とする能力を高めますか、弱めますか?最近、誰の意見に最も影響されていますか?繰り返し一緒に過ごすうちに、誰のイメージを顔に反映していますか?
連結構造とは、生命システムの変化が起こるプロセスを説明する生物学用語です(Humberto R. Maturana and Francisco Varela, The Tree of Knowledge: The Biological Roots of Human Understanding, rev. ed. [ボストン: Shambhala, 1992]) 。連結構造には、ある期間をかけて、相互に影響をおよぼす2つの実体が関係します。二つの実体が会うたびに、変化が生じます。こうして関係し合うあいだに、2つの異なる実体はお互いとの違いが減少し、より似通うようになり、時間の経過とともにますます適合します。足と靴のように、2つの石をこすり合わせたように、二者は互いに変化します。
時間をかけて誰かと、または何かと繰り返し関わると、自分が変わります。アイデアやイメージとかかわることでさえ、自分が変わります。だからこそ、環境がとても重要なのです。テレビで何を見るか、雑誌で何を読むかがとても大事です。見るものに注意してください。誰と、または何とかかわるかに注意してください。繰り返すかかわりは、細胞を変化させます。魂を変えます。表情を変えます。
繰り返しかかわる事で適合して起こる変化は、なぜ友達が同じ服を着たり、同じしゃべり方をしたりするかを説明できるでしょうか?ひょっとして連結構造は、時とともに、なぜカップルが似通うようになるかを説明するのではないでしょうか?私たちは愛する人や、よくかかわる人に似通うようになるのではありませんか?連結構造は、私たちが賞賛し、尊敬する人々に次第に似ていく過程なのでしょうか? 私たちは誰かと繰り返してかかわることによって、その人に似るだけでなく、その人が見ているように見えるようになるのでしょうか?
絶え間なく変化する生命的構造、心理社会的構造、そして霊的構造は、私たちが見るもの、自分にとって現実と見なすものに影響を与えます。BYU宗教教育学部長のロバート・L・ミレーは、「私たちは物事をありのままに見ていません。私たちは自分のありのままに物事を見ているのです」(キリストにあって生きる。霊的な生まれ変わりの奇跡[ソルトレイクシティ: Deseret Book, 1997年], 28;)。
生命的構造、心理社会的構造、そして霊的構造は他人との関わりによって変わります。連結構造によって、眼も、心も、細胞も、魂も変化します。
では、誰のように一番なりたいですか?誰に似た人になりたいですか?誰のように考えるようになりたいですか?誰のイメージを顔に反映させたいですか?
社会学の原則は次のように述べています:関われば関わるほど、感情が募ります。誰かと関われば関わるほど、その人に対する感情が高まります。連結構造の生物学的原理は、繰り返し関わるにつれて、その人やもののようになっていくことを示唆しています。
キリストのもとに来て、キリストに似た者になる
救い主は御自身のもとに私たちが来るよう、望んでおられます。私たちがみもとに近づくことを望んでおられます。主は、私たちがもっと交流を繰り返し、主を本当に知ることを望んでおられます。
社会学の原則によれば、主との交流が増えると、主に対する感情が高まり、主との交流がさらに増えるようになります。(それはなんと美しく高潔なサイクルでしょう!)そして、連結構造の生物学的原理によれば、救い主との交流が増すと、私たちはますます救い主のようになるのです。
そして、主は決して変わることはありませんので、救い主との交流で起こるはずの変化はすべて私たちの中で起こります。
救い主との交流を増やすとき、真に救い主のもとに来るとき、私たちは救い主のようになることができます。しかし、「キリストのもとに来る」とはどういう意味でしょうか?どうすればキリストのもとに来られるでしょうか?数年前に3歳の女の子と接した経験を通して、誰かと本当に親しくなりたいとき、誰かのことを本当に知りたいときに、どれほど粘り強く、怯まぬ努力ができるかを学びました。
この小さな3歳児との経験を通して、キリストに来ることについて、いくつか新しい洞察を受けました。私はカナダのアルバータ州レイモンド町で、私が子どもの頃集まったワードの聖餐会に出席していました。ほんの数年前の夏のことです。この小さな3歳の女の子とその家族の後ろの列に座るとすぐに、彼女は私に目を向けました。(最初に彼女の目に留まったのは私のイヤリングだったと思います。)私は彼女に名前を尋ねました。それは私と同じ「ウェンディ」でした。私が彼女に同じ名前だと伝えると、彼女はとても興奮しました。私もそうでした。
救い主は、私たちが主の御名を受けることを望んでおられます。主の御名を持つように。
近くに賛美歌がなかったので、ウェンディのお姉さんに、家族の前の列から1つ手渡してくれるよう頼みました。3歳のウェンディは私の頼みを聞いて、4人の兄弟と両親の膝をすりぬけ、前の列から本を取り、うれしそうに私に持ってきてくれました。
ウェンディがあの讃美歌を取りに行ったことは、二―ファイが版を手にしたことと同じほどに難しかったと言うのではありませんが、彼女の「行って行う」精神は同じだったかもしれません。(1ニーファイ3:7参照)
主が私たちに求めておられることを聞くとき、積極的にすぐ対応しますか?主が望んでおられることを積極的に、また迅速に行うのは、主に近づくための一つの方法でしょうか?ウェンディは私の願いを聞いて、この愛情を込めた行為を成し遂げました。
ウェンディが私に近づきたいという願いは、父と私が開会の賛美歌を歌っているとき、ベンチの背もたれに身を乗り出し、私たちの開いた賛美歌の上に顔を乗せ、光と愛に満ちた大きな茶色の目で私たちのに微笑みかけたときに明らかになりました。
聖餐会が続く中、ウェンディは私とつながるためのあらゆる方法を見つけました。私に彼女と話すように懇願し(私は彼女の耳元にそっとささやくことで応じましたが)、ベンチの背もたれに寄りかかった姿勢から、私の顔と手をできる限り観察しました。そして我慢できずに、彼女はベンチの下をくぐり抜け、私の膝の上に座り、集会の残りの時間を幸せそうに、穏やかに、楽しそうに過ごしました。
私たちは、救い主にさらに近づこうとする同じ落ち着きのない気持ちと重要性を感じているでしょうか?
(ついでに言うと、ウェンディは、その行動で何人かの人々を喜ばせました。もちろん私、そして前を向くようにと言わなくてもよくなった彼女の両親と、それを聞かなくてもよくなった会衆の人たちでした。)
ウェンディは、私を間近で見るという新しい視点から、私の家族にも興味を持ちました。父を指差して、「名前は?」と尋ねました。
私は「彼の名前はパパです」と言いました。
ウェンディは喜びと驚きと畏敬の念を込めて、「私にもパパという男の子がいるのよ!」と言いました。
私たちが救い主に近づくとき、救い主のもとに来るとき、救い主にも天の御父がおられるだけでなく、主の御父が私たちの父であることを理解するようになります。
そして、ゲッセマネの園で、救い主が私たちのために受けられた深く果てしない苦しみのさなかで、天の御父に「アバ」と叫ばれたとき、最も親しみやすい名前で「お父さん」と叫ばれた時があったことを私たちは知っています。
ウェンディを膝に乗せながら、私は彼女の耳元でささやき、彼女がどんなに素晴らしい女の子であるか、彼女のお母さんとお父さんがどれほど彼女を愛しているか、そして彼女がどれだけ彼らを愛しているかを示すために何ができるかを彼女に伝えました。彼女はこれらのことを聞いてすっかり有頂天夢見心地になっていました。完全に静かになり、考えにふけっていました。
思索にふけるとき、特に聖霊の静かで小さな声に耳を傾けるとき、私たちは自分が素晴らしく、愛されていることを聞くことができると信じています。私たちは、主に愛を示す方法、主に近づく方法、主との交流を深める方法を知るでしょう。そして、私たちはもっと主のように見、主のように愛し、主に似た者になる能力を高めます。
救い主は究極の、唯一の、真の生ける変化の源
救い主は究極の、唯一の、真の生ける変化の源です。主はすべての変化の源です。主は水をぶどう酒に変え、お祝いに最高の飲み物をもたらしたように、私たちが主に立ち返るとき、主は私たちから最高のものを引き出してくださいます。主は皆さんの心の奥底から、すべて最もすばらしいものを救い出してくださるでしょう。
イエス・キリストの御名によって、天の御父に助けを求めてください。神の助けを求めることは、神に近づく方法の一つです。
イエス・キリストは目を変えました。そして、主は、人生を変えるために見るべきものを見る目を皆さんに与えてくださいます。主は理解の目を開いてくださるでしょう。ただ求めてください。
イエスは耳を変えました。そして、聖霊によってもたらされるご自身の声を聞けるよう助けることができます。主の声を聞くことができると、自分の声に力が加わります。求めてください。
救い主は弱った手足を変えられました。主は皆さんの動きと方向を変えて、人生の次のレベルに進むのを助け、周りにある弱い膝を支えようとする皆さんの努力を助けることができます。求めてください。
彼は数匹の魚とパンを変えて、5,000人に食物を与えられました。そして、主はやもめのレプタに値する皆さんの時間、エネルギー、能力などを尊んで大いなるものにしてくださいます。主はそれらを増やしてくださり、必要以上にしてくださいます。 求めてください。
主は名前を変えられました。彼はサウルをパウロにしました。主は皆さんが神の息子や娘になり、これまでになかったほど主の御名を受けることができるよう助けてくださいます。
イエス・キリストご自身は決して変わりませんが、彼は典型的な変化の源であり、唯一の、真の生ける変化の源です。そこにある皮肉は素晴らしいことだと思いませんか?唯一、真の生ける変化の源は決して変わらないのです。真の生ける変化の源はたった一つで、彼は変わらないのです。そして、主は皆さんを愛しておられ、皆さんの変わろうとする努力を愛しておられます。
主の願いは、皆さんが変わり、時とともに生まれながらの人を完全に捨て、心の変化を生じ、性質を変化させることです。イエス・キリストは変化をもたらすためにその全てのことを成し遂げました。主は皆さんの救い主であり、私の救い主でもあります!
そして、わたしたちが積極的に、根気強く、主の無限の贖いの力がわたしたちの人生に適応されるようにお願いすれば、主の究極の癒しは私たちそれぞれの人生に、ぜひとも必要な究極の変化をにもたらしてくれるのです。イエス・キリストの御名によってアーメン。
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このディボーショナルは1998年4月7日に行われ、その時にウエンディ・L・ワトソンは結婚および家族セラピー教授でした。