信仰深く、きっぱりとして、心を決めた男性と女性、将来起こる事にひるまず、正しい事のために何度でも立ち上がる意思のある男性と女性を、主は必要としています。
必要に応じて翻訳を修正します。何かご提案があれば、speeches.jpn@byu.eduにご連絡ください。
青に染まった人間にとって、このキャンパスに戻るのは素晴らしい事です。私はBYUが大好きです。でもこの大学は好きですが、皆さんをもっと愛しています。私にとって、皆さんはこの堂々たる教会の活力を象徴するものです。皆さんは、この辛辣で誘惑に満ちた世界で正義が存続するという、生きて呼吸する証拠です。皆さんの年齢の男性や女性の集会に出席するたびに、そうそうたる霊的な可能性に取り囲まれていると感じます。この部屋には何人、未来の伝道部長、ビショップ、若い女性のアドバイザー、プライマリーの会長がいるのでしょう。母親として父親として皆さんの献身に支えられ、何人の子供たちが正義のうちに育てられるでしょう?この聴衆のうちだれが国家や民族に福音の門戸を開く手助けをするでしょう?誰が私たちのメッセージをさらに効果的に広める技術を開発するでしょう?地域社会で、学校で、国々で、健全な社会を安定させるのに欠かせない価値観のために誰が立ち上がるでしょう?つまり、この末日の戦いの最前線のどこに皆さん一人一人が立つのか思いをはせずにいられません。私には確信していることがあるからです。皆さん一人一人には果たすべきユニークな使命があるのです。それは前世で立つように召された場所に立つという事で、今日はそのお話をしたいと思います。
BYUで私が学生だった頃、1年間休学して世界中の軍事基地で娯楽を提供するUSOグループとツアーに出ました。ある旅では極東に行くことになっており、旅行前に父は私に厳しく警告しました。「この旅の事で心配してるんだ。注意しなさい。行ってはいけない所に行くんじゃないよ。」父の言葉は私の注意を引きましたが、実を言うと、東洋の冒険が始まると、父の警告を忘れてしまいました。
ある日、北朝鮮と南朝鮮を隔てる軍事境界線の近くの基地で上演する予定がありました。私たちをエスコートする将校は、軍事境界線に行って、朝鮮戦争に終始符を打った停戦協定に調印したぺンミャンジョムを訪れたいか、私たちに聞きました。歴史的に非常に意義深い場所です。当時、二つの韓国の関係は緊張していて、私たちは安全なのか聞きました。将校は安全だと保障しました。でもそのすぐ後で、事故や死者が出た場合、軍の責任を免除するという誓約書を引っ張り出して、私たちにサインさせました。私は急に父の警告を思い出しました。「注意しなさい。行ってはいけない所に行くんじゃないよ。」でも楽しみに水を差したくなかったし、ちょっと好奇心があったしで、心配を軽く流して免責書類にサインし、軍事境界線へ向かいました。そこでは私たちは合衆国軍の加護の元にありません。
その現実はすぐに明らかになりました。マシンガンを担いだ北朝鮮の陰気な兵士の列を過ぎるにつれ、「兵士と目を合わせるんじゃないよ、何が彼らを触発するか知れないから。」と私たちは警告されました。私たちの死体は永遠に発見されないかもと皆が冗談を言っている間に、私のお腹は気持ち悪くなってきて、頭の中で父の警告がデジタル・ド-ビ-・サウンドで鳴り響きました。私はまさに行ってはならない所へ来てしまったのを知りました。神経のすり減る経験でした。敵の前線のすぐ後ろにいるような気がして、歴史を専攻する者にとってこの小旅行は興味をそそるものでしたが、そこから脱出するのを待ちきれませんでした。国境を越えて韓国に戻ってくるまで、安全と感じませんでした。後で分かりましたが、それなりの理由があったのです。その週の後半になって、3人のアメリカ人が、軍事境界線で射殺されたのです。
この経験を頭において、ジョージ・アルバート・スミスが十二使徒定員会の一員だったときの言葉を考えてみて下さい。
くっきりとした境界線があって、主の領域とルシファ-の領域とを隔てています。境界線の主の側で生活すれば、ルシファーは主の側に来て私たちに影響を及ぼすことはできませんが、ラインを越えてルシファ-の領域に行けば、彼に支配されます。主の戒めを守ることで私たちは主の側で安全ですが、主の教えに背けば、自発的に誘惑の圏内に踏み込み、いつもそこで待ち受けている破滅を呼び寄せることになります。それが分かっているなら、主の側に立って生きることに、どれほどいつも熱心であるべきでしょう。[“Our M.I.A.” インプルーブメント・エラ、1935年5月、278]
繰り返しますが、「境界線の主の側で生活すれば、ルシファ-は主の側に来て私たちに影響を及ぼすことはできません。」ルシファ-が敵の占領区域に変えてしまった世界で、何という安全保障の申し出でしょう。その世界ではルシファ-の誘惑はかつてないほど挑発的で、人を奴隷にしてしまいます。悪魔が自分の側に私たちをおびき寄せるためには手段を択ばない世界です。そこでは聖霊の影響も保護もありません。幸い、サタンは私たちに何もさせることができません。預言者ジョセフは言いました、「悪魔がエホバを御座から降ろそうとしても、悪をすべて拒絶する罪のない人を屈服させようとしても」 (教会歴史 4:605)、敵の持つ力はたった一つ、私たちが罪を犯したり、誓約を破る時に私たちがサタンに許す力だけです。そして私たちは敵の策略に立ち向かうのに、たった一人取り残されているのではありません。イエス・キリストの力は悪魔の力に勝りますから。だから主の側に留まるなら、ルシファ-は私たちに影響を及ぼせないという約束があるのです。「あの邪悪な者があなた方の中で力を持ち、あなたがたの場所からあなたがたを退けることのないように、常に祈りなさい。」(教義と聖約93:49; 強調追加) と忠告されるのも不思議ではありません。「聖なる場所に立ち、動かされないようにしなさい」と訓戒されるのも不思議ではありません (教義と聖約87:8; 強調追加)。
ごく簡単に言うと、私たちの肉体や霊の安全は、光と闇、善と悪を分かつ線の近くにさえ寄らない、という点にかかっています。イエス・キリストは、いかに敵に対処するかを示されました。サタンが誘惑した時、当意即妙の応答も意志の戦いも全くなく、ただ、すぐさま追い払っただけでした-「サタンよ、退け...『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」(ルカ4:8, 12)。全てをご存知のエホバが敵と議論する意思がなかったとすれば、私たちはすぐさま逃げるべきではないでしょうか、生き延びるために、永遠の命のために、ほんのささいな悪の兆しに迫られるときでさえ。
皆さんは賢明で並外れてさえいます。ゴードン・B・ヒンクレ-大管長は、この地球に生まれたうちで皆さんが最優秀な世代だと繰り返し述べています。その預言による承認があっても、皆さんはそこまで賢くはありません。敵との格闘から立ち直れるだけの力がありません。サタンの策略や、欺き道を誤らせる能力には絶対かないません。悪魔との対決に意図的に応じれば、いつも出し抜かれ、裏をかかれ、根負けさせられます。ルシファーは熟練したカーニバルの客引きと同じです-「いらっしゃい、お入りください、地上最大のショーをお見逃しなく。」ところが彼のテントに入った途端、皆さんを捨てて苦悶と孤独と暗闇の中で身をよじらせるのです。
幸い、境界線のどちら側に立つかという選択は私たちができます、なぜなら、「人は,すべての人の偉大な仲保者を通じて自由と永遠の命を選ぶことも,あるいは悪魔の束縛と力に応じて束縛と死を選ぶことも自由」(第2二―ファイ2:27)からです。選択は私たちのものです。もし私たちが許容すれば、イエス・キリストがルシファーから私たちを守り開放してくれるのです。ルシファーは反逆と傲慢と権力のむさぼりのために、受け継ぎを失ってしまい、今や私たちにも同じ危険を冒させようとやっきになっています。ですから主の側に立って揺るがないことには命運がかかっており、主の側では守られているだけでなく、究極的に主と結び固められているのです(モ-サヤ5:15参照)。
確固として揺るがないという原則において、私はノースカロライナ・ターヒールズを思い出します。私はバスケ狂で、バスケットボールで名を馳せたカンザス州の生まれでもあり、カンザス大学のジェイホークスとターヒールズの試合をたくさん観ました。どちらも引きません。
確固として揺るがず、ヒール(かかと)をタールにつけて主の側に立つのが、長期的にルシファーに勝つ唯一の作戦です。彼の誘惑には見え透いたものもあって、屈服する人には悪の側に入るのに大変な飛躍を要します。如何ようにでも道徳に背けばそれは不道徳で、正直でないものは何でも不正直です。ポルノや麻薬、アルコール、さらには行き過ぎた物質主義さえ、私たちを敵の側へ押していきます。
しかし、あからさまな悪に私たちを屈服させられなければ、敵は策略を用いて、じわじわと私たちを疲れさせ、決意を弱らせ、私たちが何者なのか記憶をかすませ、敵地へおびき寄せようとします。聞き覚えがあるか考えてみてください。ルシファーは、いま何をやっても関係ない、時間はたっぷりあるからあとで霊的にやり直せばいい、とささやきます。いま罪を犯して後でつけを払え、という計画です。私たちの虚栄心を、人気や権力や富の約束であおります。私たちの聞きたいようなことを言います ― 人生は安易で楽しくあるべきで、苦しみや割に合わない困難に出合うなら、福音は使い物にならない、と。ルシファーはいつも近道を勧めます。行くほどの価値のある所へは近道などないのですが。
悪魔は、私たちに他人と比較して、お互いを非難し、裁かせたいのです。私たちをスライド制の道徳基準で麻痺させて、先には嫌悪していた行いを最後には受け入れさせます。何であれ明らかな不道徳でなければ、それはただのスポーツで、害はないし反則でもないと信じさせたいのです。学校やデートや仕事に振り回されて、真に福音に生き、 祈りを通して答を得る方法を学んだり、聖典に没頭したり、神殿に参入したりする時間がないようにさせたいのです。ほんの少し私たちが高潔に背いても悪魔は大喜びです。なぜなら気をつけなければ、背きは最終的に私たちを「巧みに地獄に誘い落とす」のを知っているからです(第2ニーファイ28:21、強調追加)。
私たちが敵の戦術に屈服すると、私があの日、軍事境界線で経験したのと同じこと、恐怖と不安を経験します。なぜなら、敵はどんなに策略をこらしても喜びや平安をまねできないからです。だから境界線の主の側には安全があり、そこでは神権と聖霊の力が私たちを守るのです。
ではどうやって主の側に留まるのでしょうか?いかに聖なる場所に立って動かされないようにするのでしょう?今年、2000年に、私たちはヒラマンと二千人の若い兵士から多くを学べます。あの物語はご存知ですね、二千人の正しい若者が父親たちに代わって戦うと名乗り出ました。父たちは二度と兄弟の血を流さないと誓約していました(アルマ24:18参照)。これらの若者は、強大で老練なレーマン人の軍隊に最終的に勝利しますが、それにはいくつか理由がありました:
1.ヒラマンの若者たちが戦いに行く前に彼らは「自分たちの自由を決して放棄することなく,ニーファイ人と自分たちが奴隷の状態に陥らないようにするために,どのような場合でも戦うと誓」いました(アルマ53:17)。私たちも同じです。主に対する奉献と完全な献身の第一歩は主と誓約を結ぶことです。それがバプテスマで私たちがすることです。それが、のちに主の宮居に参入するとき、力強い霊的な影響下で私たちが再びすることです。
誓約を結ぶことにはパワーがあります。毎週、誓約を更新し、御子の御名を受け、常に御子を憶え、御子の戒めを守ると約束するとき、それと引き換えに天の力に満ちた比類のない約束を受けます―「いつも御子の御霊を受け」るのです(モロナイ4:3)。聖霊とともに生き、そして聖霊の声を聴くことを学ぶのは、カギです。おそらく主の側に堅くとどまって動かされないための、唯ひとつ最も意義のあるカギです。そしてすべては聖約を結ぶことから始まります。
2.二千人の若い戦士たちは誓約を結んだだけでなく、守りました。「彼らは託されたことは何であろうと,いつでも誠実に果たす者たち」だったのです(アルマ53:20)。つまり、やると言った事はやったのでした。彼らは正義と悪の境界線をまたぐ方法をいつも探してはいませんでした。
ヒンクレー大管長が60 Minutesという番組でマイク・ウォレスのインタビューを受けたあと、その会話についてウォレス氏と話す機会がありました。マイク・ウォレスが一番、感心した様子だったのは何だか分かりますか?ヒンクレー大管長がインタビューに関してやると約束したことをすべてしてくれた、という事でした。後ほど、ヒンクレー大管長の自叙伝でどのように私がウォレス氏を引用しようと思っているか見せようとしたら、彼は答えました、「それは要らない、君はモルモンだ、信用するよ。」この古つわもののジャーナリストが、私たちの教会員は誰でも信頼できると本当に考えていると思いますか?何も見なくても?彼はそんなに甘くはありません。でも彼の言葉は私を反映したものではなく、ヒンクレー大管長との体験を反映したものでした。つまり彼は、「あの人と関わりがあるのなら、君もやると言った事をやる人間だと思う」という意味のことを言っていたのです。
私たちは、信頼を託されたことにいつも正直でしょうか?本当のことを言うでしょうか?愛と信頼を寄せてくれる人たちに誠実でしょうか?私たちが、神の息子、娘であり、永遠の未来があるという知識に誠実でしょうか?御霊のささやきに従っているでしょうか?神殿の聖約に従っているでしょうか?地上へ来る前にやると約束し、パプテスマやエンダウメントを受けた時にまた約束したことを行っているでしょうか?
若い戦士たちは誓いを守っただけでなく、「すべての号令に従ってそのとおりに行」ったのです(アルマ57:21)。つまり誓いを厳密に守ったのです。安息日を聖く保ったり、道徳的に清く生活したり、真実を話したり、つつましい服装をしたり、そういう事を生半可な心で努めても、それは努力などではありません。ジョセフ・スミスは、「正直,真実,純潔,慈善,徳高くあるべきこと」(信仰箇条1:13)を私たちは何となく信じている、とは言いませんでした。シナイ山で主は、「盗んではならない、本当に困った時以外は」と宣言しませんでした。「あまりむさぼってはならない」とも「あまり頻繁に姦淫してはならない」とも言われませんでした。「してはならない」と言われ、越えてはならない線をはっきりと描写されました。それは誠実さ、道徳、純潔への違反を表す境界線で、御霊を追い払い、究極的に魂を破滅に導くほど深刻なものです。それは、考えや動機や行動のコントロールを失ってルシファーの領域に入り、彼の支配下におちないように、遠く離れているべき境界線です。
一杯のあつもののために生得権を売る男性や女性は皆さんに言うでしょう―彼らの破滅は、小さなこと、一見ささいな徳の違反から始まり、悪化していったのだと。小さなことは重要です。罪とたわむれながら、正義を主張できません。間違いなく、生得権があるがためにルシファーは皆さんを欲しています。皆さんの心と体と魂を欲しています。敢えて申しますが、黄泉の世界では、皆さんの一人を鎖でつなぐほど、ルシファーをほくそ笑ませるものはありません。
私たちが戒めと聖約を正確に守るにつれて、主は私たちを強めてくださいます。至上の模範は救い主ご自身です。ゲッセマネで「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と言って誓約を新たにされた後、これから先の苦悩に耐えられるように「御使が天からあらわれてイエスを力づけ」ました(ルカ22:42–43)。十字架の上で「すべてが終った、み旨をなし遂げた」と言われ(ジョセフ・スミス-マタイ27:54、ヨハネ19:30も参照)、永遠でもこの世でも誓約を守る最高の模範となられました。もし主が約束どおり正確に誓約を守らなかったなら、贖罪はなかったことでしょう。私たちも同様です。私たちが誓いを新たにするなら、主はどんな誘惑にも負けないよう私たちを強めてくださいます。
末日聖徒として生きるのは容易ではありません。でも別のオプションよりは簡単です。使徒の値は高いかも知れませんが、罪の値よりは小さいのです-聖霊を遠ざけてしまったり、自尊心を失ったり、永遠の命を危険にさらすよりは安いものです。
3.若い戦士たちは信者でした。彼らのキリストに対する信仰は生きていて活力がありました。彼らは主が山をも動かされる、主を信仰するなら、絶滅をもくろむ血に飢えたレーマン人の軍隊など言うまでもない、と信じていました。こうして、命を危険にさらすのか聞かれたとき、彼らはためらいまでんでした。「神はわたしたちとともにいて,わたしたちが敗れることのないようにしてくださいます。ですから,出て行きましょう。」若者たちは「疑わなければ神が救ってくださる」と信じていたのです(アルマ56:46–47)。
福音の第一原則が信仰なのには理由があります、それは私たちのキリストを信じる意欲なのですから。救い主がやると言われたことを行われ、私たちの人生で贖いの力を活性化させてくださると信じる意欲なのですから。主は「人の子らが主を信じる信仰を働かせれば,主は彼らのために,御心のままに何でも」して下さると約束されたのです(第1ニーファイ7:12、強調追加)。
信仰が強まるにつれ、主の側で生きる人々に主がたまわった壮大な約束を理解するようになります。主は、傷ついた心を癒し、打ちひしがれている者に自由を得させると約束されました(ルカ4:18、ヤコブ2:8)。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられ(イザヤ40:28–29参照)、容易に重荷に耐えられるように助け(モーサヤ24:15)、主を求めるなら、助けに来てくださり(アルマ7:12)、私たちの生活を贖い主の岩の上に築くなら、悪魔には私たちを負かすどんな力も許さないと約束されたのです(ヒラマン5:12)。
ここにいる人の殆どは主がこういう事をおできになると、きっと信じている事でしょう。でも主がそうして下さると信じますか?主が私たちの傷ついた心を癒し、重荷を背負えるよう助けて下さると?主は、「信じようとする望みを持つ」だけでもいいので、この望みを内に働かせて、主の言葉を試してみるべきだと言われました(アルマ32:27)。救い主の嘆願が聞こえませんか?「私を試してみなさい。私を試して、やるといった事をあなたにしてあげるかどうか見てみなさい。」
私には、主が将来助けてくださり、今も助けてくださっているという証があります。でもまず、私たちが信じないといけません、いくさに慣れていなかったけれども霊のことを教えられていたヒラマンの息子たちのように。その結果、「彼らはまるで神の力を得たかのように戦いました。このように奇跡的な力で戦った人はこれまでに一人もいません。」(アルマ56:56)
主に対する彼らの信仰は、行進の始まったとき強かっただけでなく、苦難の最中にあっても強いままでした。若者たちは一人残らず負傷し, 一時は餓死寸前でした(アルマ57:25, 58:7参照)。それでも、動揺する代わりに、主に心を向けて力を求め、授かったのです(アルマ58:10–12参照)。信仰があっても困難は消えませんでした。ヒラマンの軍の行進を楽にはしませんでした。苦痛から免除されませんでした。でも信仰は神の力を引き出すことを可能にし、そのおかげで彼らは試練を耐え忍び、最終的に救われたのです。
もし神の力を得たかのように戦わなければ、私たちは今の戦いに勝つことはできません。サタンの声はうるさく、執拗で、もてはやされているからです。神の男性女性とこの世の男性女性の生き方における差は広がるばかりですが、私たちが主の聖約の民として自分に誇りを感じている限りは、大丈夫です。
大丈夫だという理由は十分あります。なぜならニーファイは末日の教会を予見したとき、神の子羊の力を見、その力が小羊の教会の聖徒たち,また地の全面に散っている主の聖約の民のうえに下るのを見たのですから。彼らは義と神の力とをもって,大いなる栄光のうちに武装していました。(第1ニーファイ14:14)
二―ファイは皆さんと私を見ていたのです。私たちは数では少ないかも知れませんが、義と神の力とをもって,大いなる栄光のうちに武装した人々の影響は数をはるかに超えて伝わります。この戦いは私たちだけでは勝てませんが、その必要もありません。なぜなら、主の力によって何事でもすることができるからです(アルマ26:12参照)。そして、そのプロセスは私たちの信仰から始まるのです。
4.若い戦士たちの信仰は家庭から始まりました。そこで「彼らは母親から,疑わなければ神が救ってくださると教わっていたのです」(アルマ56:47)。この正しく信仰深く献身的な母親たちが福音を教えただけでなく、若い戦士たちは耳を傾け、それがきっと、いざ時が来た時に預言者ヒラマンに従う備えをしたことでしょう。私たちへの教訓は明らかです。誰の話を聞くか注意深く選び、そして耳を傾けるのです。誰に従うか注意深く選び、そして従うのです。まれに例外もありますが、ご両親ほど皆さんの福利を気遣う人は他にいません。ご両親を信頼して耳を傾けてください。また聖見者であり啓示者である預言者にも聞き従ってください。預言者が助言するのは、ただ真実を教えたいという望みと、皆さんの神聖な可能性を信じるのが動機なのです。皆さんのお金や票や支持が欲しいからではありません。預言者に聞き従わないなら、いっそ預言者がいなくても同じです。
サタンは意見や英雄や模範となる人について私たちを混乱させようとします。キラキラのもの、美しいものを、価値や動機はどうであれ、拝ませようとします。サタンは金持ちや有名人に私たちを酔わせようしますが、実はそういう連中の多くはだた酔っぱらっているだけなのです。単に誰かがボールをゴールに命中させたり、ヒットソングを記録したり、何十億ドルもの新規公開株を立ち上げられるからといって、その人たちが尊敬に値するというわけではありませんし、その生活パターンに私たちが倣うべきだという意味では決してありません。イエス・キリストは一つの確かなパターンを示してくださいました。賢くあれば、私たちは主に近づけてくれるパターンだけに従うでしょう。それが、誰であれ、人の動機を評価するリトマス試験紙なのです。
5.幸せと長続きする喜びは福音に沿った生活からのみ生まれます。ヒラマンは二千人の部隊を戦いに率いた後で言いました、「わたしたちを守ってわたしたち全員が滅びることのないようにしてくださっている神の慈しみを思い,非常な喜びに満たされました」(アルマ57:36)。喜びと正義は密接につながっています。サタンはその逆、つまり喜びとこの世の享楽は一つの同じものだと思わせたいと願っていますが。でも二者は違います。同様に、サタンは、幸せは従順のうちには見出せないと信じさせようと願って、従順は自由を与えるものではなく拘束するものに見せかけようとします。でもそれは嘘です。
一つ例をあげましょう。現在、この世のステージでは殆どどこでも、不道徳はあがめられ、不純な誘惑に負けることは、道徳的な純潔を守るよりも容易で望ましくさえあるように描かれています。でもそれは違います。性的な罪を犯すひと時は、不道徳が容易な最後のひと時です。不道徳の結果、より幸せになり、自分に対してより良い思いを持った人、心に平安を得た人を私は誰も知りません。一人も。
伝統的な適齢期を過ぎて25年間、未婚で生きてきた人間として、純潔の難しさは知っています。いつも簡単なわけではありませんが、他の選択肢よりはずっと簡単です。純潔は後悔や自信の喪失よりもずっと楽です。誓約を破る苦悶や、浅い破局に終わる関係と悪戦苦闘するよりは楽です。そう言っても誘惑が全くないわけではありません。ずいぶん前に自分の生き方を決めた46才でさえ、常に用心しないといけません。絶対に見たり、読んだり、聞いたりできないものがあります。思いや衝動の引き金を引いて、御霊を追い払い、道徳の境界線のはずれまで私を押しやるからです。でもそういった犠牲のように思えることにも十分値打ちがあります。
御霊と共に生活することは御霊なしに生きるよりはるかに安らぎがあり、どうせ最後には崩壊する肉体関係におぼれるより、信頼と真の友情に支えられた関係を築くほうがずっと喜びがあります。サタンの虚偽は奴隷の束縛に導くだけですが、救い主の約束では、天父が与えようと望まれる富を私たちが求めれば、私たちは「すべての民の中で最も富んだ者になる」のです、私たちは「永遠の富を持つからで」す(教義と聖約38:39)。言い換えれば、この世で喜びを得、来るべき世では完全を受けるのです。正義は幸せを生みます。
他にもヒラマンの息子たちから学べる教訓は沢山あります。奉仕、無私、従順、奉献、忍耐について話せます。けれども、今は最後の、おそらく今日のお話の目的で最も切実なポイントに移ります。
6.アルマ書のこのお話では、教会の集団を鼓舞し、強め、窮地から救うために進み出たのは青年たちでした。彼らの助けを必要としていた時、青年たちは心構えができており、ふさわしく、求めに応える意思がありました。何度も何度も彼らは救出に来て、戦いが続くにつれ士気の下がりがちな年上のニーファイ人の軍をしばしば強化しました。若い戦士たちは、古い西部劇で、間一髪のところで救出にやって来る騎兵隊のようでした。
ヒラマンの若い部隊のように皆さんは騎兵隊で、激戦の勝負どころで主の御業を担っています。この戦は天における戦いに始まり、今日に至るまで荒れ狂っています。ヒラマンはモロナイに、彼の「小さな軍隊」は二―ファイ人の軍に「大きな希望と大きな喜びを与え」たと言っています(アルマ56:17)。ヒラマンの二千人と比べると、今日、18才から25才の皆さんがほぼ200万人この教会にいます。とは言え、世界人口とひどくなる一方の邪悪と比べれば、皆さんは「小さな軍隊」です。しかしまた、ヒラマンの時代のように、私たち、古い世代は皆さんの力と善意に喜びを感じます。皆さんは教会組織に大きな希望と大きな喜びをもたらします。敵と対峙するため、悠久の前世のあいだに備えられた末日の増援部隊なのです。教会組織を力づけ、前進を助けるべく、ヒンクレー大管長がしばしば言うように「ぜったい後へ引かずに」今や前に進み出なければならない増援部隊なのです。
この4か月間、扶助協会の務めで東南アジアやアフリカを訪問し、2つの異なる大陸で驚くべき傾向を目撃しました。カンボジアやインドネシア、ガーナ、ケニアといった、教会はまだ若いながらも霊的に強い国々では、真実を認め、教会に加わり、指導するよう召されているのは皆さんの年代の若い男性や女性なのです。プノンペンの地域扶助協会や若い女性の会長はともに20才そこそこです。そして私はカンボジアの地域大会を決して忘れないでしょう。30人のハンサムなカンボジア人の若い男性が立ち上がって歌ってくれました、「ヒラマンの勇士のように、子供の時から教え受け」(「ニーファイのように」、子供の歌集、92)。彼らはカンボジアにおける教会の未来です。彼らは自分たちの住む世界の一角で救いをもたらす事でしょう。人生が皆さんをどこに連れていこうとも、主の側で生きる限り、皆さんも同じように救援に駆けつけるでしょう。
ヒンクレー大管長が60 Minutes に出演してから、末日聖徒でない視聴者がCBSに投稿しました、「復活祭の日曜に放送されたモルモンのお話、興味深く聞きました…この人たちは常に変化する海の中に錨を提供します。150か国にいる5万人の清い宣教師たちは、おそらく政府の社会制度を全部足したよりも社会に貢献するでしょうね」(トム・ソーケルソンより60 Minutes宛て、1996年4月8日)。それなら、純潔で、正直で、献身的な若い男性、女性が義と神の力とをもって,大いなる栄光のうちに武装したら、その200万人の部隊に何ができるか想像してみて下さい。それをやらなければならないのです!これより偉大な目標はありません。皆さんよりも偉大な正義の部隊はありません。
信仰深く、きっぱりとして、心を決めた男性と女性、将来起こる事にひるまず、正しい事のために何度でも立ち上がる意思のある男性と女性を、主は必要としています。主の助けを疑わず、誓約をきちんと守り、どんな代価を払ってでも、主の側に立って生きると決心した男性、女性を主は必要としています。
愛する若者の皆さん、今この時、真実の自分に正直に生きると約束してくださいますか?主の側でタールに足を据えると約束してくださいますか?まず家に帰って自己審査から始めるようお薦めします。捨てないといけない服やCDやビデオや雑誌があるかも知れません。すぐ行動してください。下劣な言葉や暴虐や性的な暗示の入った映画は捨ててください。アダルトのウェブサイトを拒めないなら、インターネットのラインを外してください。どんなビデオもCDもウェブサイトもサタンの領域に踏み込むだけの値打ちはありません。どんな誘惑も皆さんの昇栄を犠牲にする値打ちはありません。こういう春の大掃除をきっと気持ちよく感じますよ。でもそれは第一部の簡単なほうです。第2部は皆さんの言葉、誠実さ、献身、徳、それに人をどう扱うかの反省が関わります。皆さんを敵の領域に引きずり込む思いや行動や習慣を一つ一つ、捨て始めてくださいますか?私はそのチャレンジに応じます。皆さんはどうです。か?主が助けて下さいます。み前にへりくだって本当に主を信じるなら、かつてなかったような力で祝福して下さいます。主は私たちの弱さを強さに変えて下さいます(エテル12:27)。生まれながらの人に少しでも打ち勝つ度に、サタンに勝利し、さらにそれは、壮大で全てを覆うイエス・キリストの贖いの力の証拠なのです。今日から始めましょう。
まぎれもなく、皆さんは末日のヒラマンの部隊なのです!皆さんは若いころから教えられてきました。回復された福音はこの地上を覆うことでしょう。戦いは猛烈でも、主は譲ることなく、王国が廃ることはありません。主の力と栄光は、劇的な完結において、今までに私たちが見てきたすべてを超越します。それは、少なくとも一部には、華々しいクライマックスの福千年に向けて取っておかれた皆さんがいるからなのです。さて、皆さん一人一人には、この質問だけが残ります-主の側に確固として動かずに立ちますか?主の側に留まれば、主は皆さんのそばにおられます。なぜなら主はこう約束されたからです、「わたしはあなたがたに先立って行こう。わたしはあなたがたの右におり,また左にいる。わたしの御霊はあなたがたの心の中にある。また,わたしの天使たちはあなたがたの周囲にいて,あなたがたを支えるであろう」(教義と聖約84:88)。
イエスこそキリストです。これは主の御業です。私たち一人一人は、主の王国の今立っている場所に立つように、前世から召されていました。聖なる場所に、主の側に立ち、どうぞ私たちが動かされませんように。イエス・キリストの御名により、アーメン。
シェリー・L・デュー姉妹は、このブリガム・ヤング大学におけるディボーショナルで2000年3月21日に講演した時は、末日聖徒イエス・キリスト教会、中央扶助協会会長会の第二顧問でした。