「しかし、魂の成長を促すような疑問もあります。その疑問は謙虚な姿勢、自分の弱点を公に認めるような謙虚さから生まれます。自分自身と自分の弱さをはっきり見るようになると、ジョセフ・スミスが無意識のうちに聖なる森に備えていたときに直面したような、弱さをさらけ出す状態に至ります。」
必要に応じて翻訳を修正します。何かご提案があれば、speeches.jpn@byu.eduにご連絡ください。
学生の皆さん、今学期も1か月が過ぎました。新入生には、これからたくさんの成長があり、数年以内に卒業式のガウンを身に着け、この場所で学位を受ける時を考えていただきたいと思います。途中または卒業間近の皆さんに対して、ここでの経験を振り返り、大学に通うことが人生にどれだけの価値をもたらしたかをよく考えていただきたいと思います。
神がわたしたちに必要なものではなく、求めるものを与えてくださった場合、どうなるか?
さて、最初の学期の2週目に、クイズに失敗して自分を哀れに思いながら、大学に関する疑問について両親にメールを送ったと想像してみてください。彼らがすぐにプロボに向い、荷物をまとめて、家に連れ戻し、オンラインで都合よく購入した偽の学位証書がベッドの上に置かれ、メモに「ただの紙きれにすぎないよ!」と書かれていたら、どれほど安心感と慰めがあるでしょうか。しかし、その安心感はすぐに消えるだろうとわたしは確信し、特に両親の家の地下室で残りの人生を過ごすことになることに気づけばそうでしょう。
大学はただの紙きれではありません。大学は、皆さんのユニークな経験、弱さと向き合う奮闘、自己発見と克服、成熟して、知恵をつけて成長することなのです。特にルームメイトやアルバイトとの関わりで学ぶことは、授業と同じかそれ以上に重要なのです。
実際、人生そのものが大学によく似ています。試験やテストが簡単になったり、いっさい免除になったりしてほしいと願う時があり、恐れを感じることがあります。時には、経験は私たちをより良い人間に成長させ、永遠に広がり続ける機会に備えるため、天の父母により愛情をもって設計された複雑なシステムであるという事実を無視することがあります。時々、試練が早く終わるように祈るとき、まるで新入生が家に「助けて」のメッセージを送るのに似ています。もし神がわたしたちの願いをすぐにかなえ、駆けつけて救ってくださるなら、その結果、永遠はわたしたちにとって両親の地下室のような経験となるかもしれません。
そうではなく、神は賢明な両親と同様に、わたしたちの永遠のアイデンティティをご存じで、困難や難題に直面することから大いなることが成し遂げられるのを御存じです。一方、わたしたちは多くの場合、そのアイデンティティについて無知であり、自分たちの人生をいつも、未来と呼ばれる暗く不可解な道の縁に座って過ごし、それが何を秘めているか知る由もなく生きています。わたしたちは何が先にあるのかを見ることができず、ほとんどの場合、意気消沈するかすっかり恐怖にとらわれてしまいます。
今朝は、どのように未来に進んでゆき、神がご存知である最高の私たちになるためのアイデアをいくつ探ってみたいと思います。比較文学の学問において、わたしが最も好きなことの一つは、趣旨の異なる様々な興味深い文学作品を分析すると、しばしば驚くほど同様の結果が出ることです。この精神で、日本の作家とイギリスの詩人から、不確実な未来に立ち向かう知恵と美しさを共有したいと思います。
闇の美:梶井基次郎の解釈
梶井基次郎は、二十世紀初めに、当時流行していた結核により早くから死の影と向き合い、その短い生涯を送りました。彼の創作随筆の一つ、1927年に書かれた「闇の絵巻」と題されたものは、東京の泥棒について言及しており、その泥棒が何年も捕まらなかった理由は、完全な暗闇でも家の中で盗みを働く能力を鍛えあげたからだと述べています。梶井は、その泥棒を、暗闇の中ではまったく無力なわたしたちの多くと対照させ、暗闇が恐ろしい境界をどのように象徴するか説明しています。
「闇!そのなかではわれわれは何を見ることもできない。より深い暗黒が、いつも絶えない波動で刻々と周囲に迫って来る。こんななかでは思考することさえできない。何が在るかわからないところへ、どうして踏み込んでゆくことができよう。勿論われわれは摺足でもして進むほかはないだろう。しかしそれは苦渋や不安や恐怖の感情で一ぱいになった一歩だ。その一歩を敢然と踏み出すためには……裸足で薊を踏んづける! その絶望への情熱がなくてはならないのである。」[梶井基次郎、「闇の絵巻」]
暗闇とその不可解な世界へ最初の一歩を踏み出す恐怖は、まるで裸足でとげのあるあざみを踏みつけるかのように、かなり苦痛です。その一歩を踏み出すために必要な決意、あるいは絶望が、なぜ暗闇に入るよりも明るい部屋にとどまる方が簡単なのか、なぜ多くの人々が暗い場所を歩く際には懐中電灯を使うことを好むのかを説明しています。わたしたちはしばしば暗闇を危険、無知、または悪と関連付けますが、それは平均して生涯の半分を占め、どの天文学者も認めるように、何十億もの世界を開いてくれます。しかし、暗闇に対する恐れはわたしたちを臆病にし、麻痺させることさえあります。
人里離れた温泉街で療養中だったときに随筆を書いた梶井は、暗闇を自身に迫る死の非常に明白な象徴と見なしています。彼は意図的に灯を持たずに夜間を歩き、友人の宿から一人で暗闇の中を家に向かうことで、暗闇と和解しようと決意します。いくつか恐ろしい瞬間を描写していますが、それでも狭い道路に沿って上流に向かって進み続けます。毎夜、散歩をするごとに、文字通り、また比喩的に、彼の目が開かれるようになります。彼は暗闇の中で心に響く美しい情景を見ます:星空にそびえる木のシルエット、街灯の下で昆虫を捕る夜行性のカエル、彼が暗闇に投げた石で裂けた柑橘の葉の香り。特に際立っているシーンの1つは、ある晩、暗闇の中で他の旅行者を発見したことです。こう書かれています。
「その途中にたった一軒だけ人家があって、楓のような木が幻燈のように光を浴びている。大きな闇の風景のなかでただそこだけがこんもり明るい。街道もその前では少し明るくなっている。しかし前方の闇はそのためになおいっそう暗くなり街道を呑み込んでしまう。
ある夜のこと、私は私の前を私と同じように提灯なしで歩いてゆく一人の男があるのに気がついた。それは突然その家の前の明るみのなかへ姿を現わしたのだった。男は明るみを背にしてだんだん闇のなかへはいって行ってしまった。私はそれを一種異様な感動を持って眺めていた。それは、あらわに言ってみれば、「自分もしばらくすればあの男のように闇のなかへ消えてゆくのだ。誰かがここに立って見ていればやはりあんなふうに消えてゆくのであろう」という感動なのであったが、消えてゆく男の姿はそんなにも感情的であった。」
梶井は暗闇の隠された美しさを一人きりで発見していましたが、今、同じ暗い道を進んでいる他の誰かが、彼の前に、提灯なしで歩いているのを見ます。彼は、その道は決して孤独ではないと結論付けています。その隠された美的喜びを発見するために夜に暗闇の中を一人で歩くことを選ぶ人もいます。その旅人が暗闇の中に消えていくのを見ながら、おそらく初めて、自分の後ろにも同じように驚き、喜び、教訓を受け取る人がいるかもしれないことを考えます。
この出会いの読み方はいろいろありますが、希望を抱かせるものだとわたしは見ています。同じ道で前方に誰かを見かけると、暗闇の中で美と平和を見出すことができるように、わたしたちが今死として恐れているその暗闇にも光と美が豊かにあることを望めるだろうと梶井は感じます。暗闇を恐れ、または偏見を持っていると、新しく啓発的な経験の世界を見落とすことがあります。そして梶井は、不確実な未来に進むときに信仰を持つことの報酬を示しています。
この記述から、恐れるものにも良い側面があること、そして恐れや不確かさに囚われすぎて希望を捨て、前進をあきらめるべきではないことを推察できます。モーセ、リーハイ、そしてブリガム・ヤングが、安定した文明社会の快適さと安全を離れて荒れ野に旅立つように命じられたのには理由があったのです。そこには燃えるしば、リアホナ、シオンが待っていたのです。わたしたち自身の生活において、疑念と恐れに立ち向かうための信仰を奮い起こし、未知の暗闇に進んでゆくと、単純な信仰は星明かりのように弱いかもしれませんが、北極星のようにわたしたちの旅を導くこともできるのを学ぶかもしれません。
T・S・エリオットと神の暗がり
暗闇の中で希望を見いだすことについて、梶井と同時代、世界の反対側に住んでいた作家から同様の洞察を見つけることができます。T・S・エリオットはイギリスのモダニズム作家であり、1940年、復活祭の日曜日に出版された詩「イースト・コーカー」は、30代のエリオットのキリスト教への改宗をつづっています。梶井が美を求めて暗闇に足を踏み入れるように、エリオットの詩は暗闇の静けさの中で神を探すことを描いています。
「聞けよ わたしのたましいよ とどまり 闇をいたらせよ おまえ自身の上にそれこそ神の暗がりとなることだろうから 劇場で 光が消え 場面がかわるように」[4つの四重奏曲 第2番 第3部]
エリオットは、「神の暗がり」は空虚な無ではなく、むしろ可能性の場所であり、無限の機会が並び立つ場所であると示唆しています。まるで暗闇の中の劇場で次の演劇を待っているかのようです。人生におけるわたしたちの霊的な探求には、光と闇の領域を通り過ぎる一連の旅がかかわります。エリオットは、わたしたちが「神の暗がり」に向かって前進し、梶井の最初の観察と平行する霊的な真実を求めて進むときの恐怖感を説明しています。エリオットはこう言います。
あるいは 地下鉄が駅と駅の間の闇の中で余りにも長時間止まっていると 乗客同士で交わされた会話はまたゆっくりと沈黙に消え おまえは見るのだ 各々の仮面の下に うつろに沈んだ心の震えが 育ちゆく 思うに思えぬ何かへの怖れだけをのこして消えゆくさまを [第三部]
エリオットの乗客は、人工的に照らされた世界で前進することに慣れすぎて、不動の暗闇に直面するとパニックになり始めます。携帯を家に忘れて何時間もアクセスできないことに気付いた瞬間に感じるかもしれない怖れに似ています。エリオットが示唆するように、暗闇に対するわたしたちの圧倒的な恐怖はわたしたちを麻痺させ、考えることさえできないという感覚を与えるかもしれませんが、最大の学びが最も暗い時に起こりうることをほのめかします。恐れに凍りつくよりも、暗黒の時に手を差し伸べて神を発見することができます。
信仰の危機か不確実性の危機か?
これら2人の非常に異なる作家の観察には何が共通していますか? 梶井もエリオットも、光と闇を一種の霊的な探求の強力な比喩として用いました。ー既知のものから未知のものへ、身近で平凡なものから隠れた可能性の領域へと移ることを例えています。両方の作家はまた、わたしたちが常に人工の光に浸っていると、答えがいつも現れることを期待し、絶え間ない光に慣れているため、地下鉄の乗客が恐れの表情を浮かべ、わたしたちは暗闇に前進することを恐れるのだとほのめかしています。
そういった恐怖は、なぜわたしたちが、時々霊的な成長の道を進んでいって、知らないことや疑っていることの曖昧さに踏み込むのをためらうのか、説明しているかもしれません。梶井の言葉を借りれば、「何が在るかわからないところへ、どうして踏み込んでゆくことができよう。」おそらく、梶井が指摘したように、再び信仰を試す準備を整え、無知の中に前進しようとすると、ただ刺すような痛みしか予期していないのかもしれません。あるいは、エリオットの言う、心が空白になる乗客のように、わたしたちは霊的な空虚さに対する恐怖、信じるものが何もないという成長過程の恐怖のせいで、ためらうのかもしれません。この状態は、信仰の危機とよく言われますが、より正確には不確実性の危機であり、異なる種類の疑いと対峙することで煽られる危機です。これらの疑いは、わたしたちが霊的な快適ゾーンの端に立って、暗黒の未知を見つめる時にいつも存在します。
わたしたちはよく疑いを、単に意図的な不信感と同じ意味だと考えますが、さまざまな種類の疑いがさまざまな方法で影響を与えることを提案したいと思います。高慢と恐れに根ざした、成長を妨げる二つの疑念と、謙虚さと信仰に根ざした、魂の成長を促す疑いという三種類を説明させてください。
1.ドロップアウト疑念
他人がその生活に信仰を応用しているのを見るのは、爽快な経験になる可能性があります。まるで名人の演奏のようにとても自然で簡単に見えるかもしれないので、その技術を身につけるために演奏者が費やした長い練習の時間を忘れてしまいます。オリバー・カウドリがジョセフ・スミスのモルモン書の翻訳を手伝っていたときは、まさにそうでした。才能ある教師だったオリバーは、昔の生徒であるジョセフがいとも簡単そうに行っていた翻訳の奇跡を試してみたいと熱望したに違いありません。主に尋ねた後、ジョセフはオリバーに試す機会を与え、その結果は末日の聖文の中で最も有益な概念の一つとなりました。自分の心の中でそれを思い計り、それから正しいかどうか答えを神に求めなければならないということでした(教義と聖約9:7-8参照)。オリバーの場合、この公式はオリバーの恐れが翻訳能力を損なうまで、うまく機能しました。
主はオリバーの恐れを非難せず、実際にはオリバーとジョセフがバランスの取れた翻訳チームを組んだことを指摘されました。しかし、信仰を働かせたもののジョセフと同じ結果が得られなかったオリバーは、ジョセフの指導に直面して自分の無能さと不安に悩み、高慢に苦しんで10年を過ごし、教会からしばらく離れました。道を外れさまよった後、再び慰めと祝福をもたらす信仰に戻りました。しかし彼が不在の間に逃した豊富な霊的な現れと祝福を考えれば、彼が疑念に屈し、脱落した代償は高いものでした。
他の人とは違う独自の霊的な旅路を歩んでいるため、あるいは日常の仲間との交流で誇りを傷つけられたために、自己や神を疑うとき、オリバーのように、まるで明かりが消えたように感じ、劇場の席で不安になり、何が起こっているのかよく分からないか、劇の第一部で起きたことに不快を感じるかも知れません。焦りや不満の中で、わたしたちはあまりにも早く劇場を出て、わたしたちの信仰とそれがもたらす個人的な成長を放棄して、気を散らす余興を見にいくかもしれません。わたしがこの不確実性の危機を「ドロップアウト疑念」と呼んでいるのは、わたしたちが学び成長できる最良の機会から時期尚早に自分自身を遠ざけるからです。
2.否定疑念
第二の疑念の種類は、暗闇に対する強迫観念に似ています。この場合、わたしたちは不確かなこと、本当でないかもしれないと密かに恐れていること、または現時点では分からないことを認めるのを避け、代わりに確実に知っていることだけに焦点を当てます。わたしたちは、アルマが言った「信仰とは物事を完全に知ることではない」との主張を都合よく無視します(アルマ32:21)。特定の知識に対する自己の偏見で目がくらんでいると、他人の苦労にも盲目になるかもしれません。それは、自分が苦労をしていないことを装ったり、彼らの疑念が自分の不安定な信仰に毒を注ぐのを恐れたりするためかもしれません。そのような自己満足は、独善や、実際には限界を知っている他の人の迫害にさえつながる可能性があります。
安全ながら制限された場所にとどまることを選択することによって、わたしたちは信仰を実践しているのではなく、むしろ信仰を休眠させています。信仰は、それ基づいて行動し、信仰がわたしたちのために設定する勢いと軌道に頼りながら一歩ずつ闇に向かって前進するときに具体化します。不確実性を恐れると、霊的には横ばいになってしまいます。なぜなら、自分自身の弱点に気づかず、その盲目さのために、他の人を強化し、キリストの羊を養う能力が妨げられているからです。これは信仰と人間性の両方、またはおそらく人間性に対する信頼の危機となります。それは、わたしたちを孤立させ、他人とのつながりを阻止し、お互いの重荷を軽くすることを妨げるからです。
これはゾーラムと彼の信者に当てはまり、彼らはラミアンプトムに立って自分たちの優越を主張していました。彼らの中核となる信念は、信仰をはぐくむ不確実性をすべて取り除いていました。物理的に神はおらず、肉における独り子が未来に来ることはなく、お金を持つ者は皆救われるため、神の前で自分の立場について疑いもありませんでした。罪悪感もなく、自分たちは「選ばれた聖なる民」と見なしていたため(アルマ31:18)、誤りを恐れる必要もありませんでした。なぜなら、神が彼らを選んでおり、したがって彼らは「惑わされない」と考えていたからです(アルマ31:17;15-18節も参照)。
疑念に直面することを避けるとき、それを恐れるだけで霊的に成長する妨げになります。未知のものを見つめると、自分の弱点を怖れるあまり無視したり、隠そうとしたり、信仰の範囲を制限したり、試練や苦難で複雑な人生を送っている人々と距離を置いたりするかもしれません。わたしがこの不確実性の危機を「否定の疑念」と呼んでいるのは、恐怖に進歩を妨げさせているからです。
3.謙虚な不確実性
ドロップアウトの疑念と否定の疑念は、高慢と恐れから始まり、わたしたちの成長を制限し、信仰を委縮させます。しかし、魂の成長を促すような疑問もあります。その疑問は謙虚な姿勢、つまり自分の弱点を公に認めるような謙虚さから生まれます。自分自身と自分の弱さをはっきり見るようになると、ジョセフ・スミスが無意識のうちに聖なる森に備えていたときに直面したような、弱さをさらけ出す状態に至ります。ジョセフは自分の弱さに悩み、神の前における自分の立場を心配し、確信を求めて地元の宗教を研究したところ、ほかの不確かさ、すなわちどの教会が真実かという疑問が何よりも重要になりました。ジョセフ・スミスと同様に、わたしたちの不安は個人的な事柄に根ざしていることが多くて、それから教義へと進みます。自分の失敗を感じ、神の前に自分の立場について疑問を抱き、神がほんとうにわたしたちを愛してくださっているのか疑い、それから神を見つけようとします。これは珍しい改宗経路ではありません。それはこの神権時代における初期の教会員に共通することであり、皆さんに似ているかもしれません。
自分の弱さに正直になれば、福音よりも自分自身に確信が持てない人もいるし、自己不信を隠すために教義のあいまいさを強調する人もいるかもしれません。どちらの場合も、「それに忠実であり得るか」という質問は、「それは真実であり得るか」を覆い隠すかもしれません。サタンは、自分をほかの人と比較するように煽り、自身の無価値感と自己不信感をかき立てますが、ソーシャルメディアの印象がこの不協和音をしばしば増幅させます。
自己不信の核心には、自分が本当に誰であるか、自分の完全なポテンシャルという未知の闇との非常に現実的な対決があります。もしその特定のあざみを踏む信仰を奮い起こすなら、御霊が示してくれる自分の弱さと真摯に取り組み、その謙虚な状態で信仰を持って神に尋ねるなら、神が「弱さを強さに変え」てくださり、闇の中で美しさと希望を見つけると知っています。(エテル12:27)霊的な進歩に心から励んでいるのであれば、謙遜になり、信仰を広げ強める助けとなる疑問や不確実性に立ち向かう機会を期待し、受け入れさえすべきです。
過去の信仰がどれほど力強く効果的であろうと、人生における新しい経験の度ごとに、新しい方法で信仰に頼ることが必要なのを神は御存じです。偉大な信仰を持ち、奇跡を見たことさえあっても、再び積極的に前進し、新たな試練のときに信仰を行使しなければ、限られた知識に慣れ過ぎてしまったり、不確実な未来に向かって前進することを恐れたりする危険性は非常に現実的です。実際に、映画ナポレオンダイナマイトのリコ叔父さんのようになり、信仰を育てる新しい経験を望むのではなく、過去の思い出に浸ろうとするリスクを冒すかもしれません!)
自己満足や独善が、成長の可能性を阻む危険があるので、人生は謎めいたヒントや、逆説、そして矛盾を多く提供し、私たちがその大局をまだ理解できていないことを思い知らせてくれます。神は、これらの謎を避けるよう警告するのではなく、周りの世界を注意深く見て観察し、「天のこと、地のこと」(教義と聖約88:79)、「すべての良い書物に通じ、またもろもろの言語と国語と民族」(教義と聖約90:15) を深く研究するよう勧めておられます。「戦争と諸国民の混乱」も同様です(教義と聖約88:79)。その過程で、疑問を抱き(疑問を持つ事は必要なのです)、大学時代のように、学べば学ぶほど、実際には知っていることがどれほど小さいか理解するようになります。知識の限界を謙虚に受け止め、人生の困惑について正直な質問を組み合わせるとき、魂の成長を促すような謙虚な不確実性をわたしたちは示します。
予想外の答え
この概念を、個人的な話でさらに説明したいと思います。わたし自身の不確実性の危機に関する話です。それは10代半ばのある夏、両親が離婚し、家庭内の混乱を離れる避難所として人里離れた荒野のスカウトキャンプで働いていたときに起こりました。一人でテントに住んでいて、夜にプロトiPod (ポータブルカセットテーププレーヤー) を持って湖を見下ろす丘の中腹に行って、音楽を聞き、星を見て、宇宙におけるわたしの小さな場所を熟考していました。懐中電灯なしで目的地まで往復してみることもありましたが、特に夜空が澄んでいて月が明るい場合は、スリリングでかつ恐ろしい旅でした (そして、数年後に梶井の随筆を読んだとき、その経験が梶井に共感できるように助けてくれました)。一日の初めと終わりにテントでモルモン書を読み、心の混乱にもかかわらず、読んだ言葉からますます確信を得ました。
夕食後の夜はたいてい、年上の、より世俗的なスタッフの数人は、教会に対する不満を語り、様々な教会指導者を批判し、世俗的な教授たちの皮肉な見方を受け売りし、わたしが大切にしていた人々や神聖な慣習を概して非難しました。夕食後にこんなことをする人もいるのだと知りましたが、当時は彼らの言葉が新情報であり、聞かざるを得ないと感じました。時々わたしは彼らの見解に異議を唱えようとしましたが、それは私を敵対者として不快な役に位置づけました。年齢 (そして身長) も低かったので、ほとんどただ聞いて、彼らの批評を吟味しました。
間もなく、彼らの冷笑主義を受け入れることは、わたし自身の信仰が危険にさらされることを意味するのに気づきました。食堂で聞いた不安をもよおす話の底には、自分の欠点や失敗に対する執拗な疑いがありました。こういう不安が、手に負えないスカウトを教えることを学びながら直面した新たな難題を取り巻いていて、さらに、家族の問題が浮き彫りにしたわたしの個人的な弱点を取り巻いていました。
個人的にも教義でも不確実性という恐ろしい暗闇に直面して、わたしは祈ることにしました。質問は簡単にしました。「この教会は本当に真実でしょうか?」その質問の背景には、暗黙の質問がありました。「ほんとうに教会に忠実でいられるだろうか。」緊張と不安なひとときの後、ようやく答えが来ました。それはイエスやノーの形ではなく、魂が永遠であるという特異ではっきりした印象を伴う、深い愛と内なる平安の感覚でした。
その全く予想外の答えは、わたしたちという存在全般の本質、特に神のすべてを包む愛についてどれほど無知なのかを教えてくれました。神の愛は、わたしが他の人や世界と交わる際の不可欠な一面になりました。それ以来、わたしの人生は謙虚な不確かさにときどき中断され、それに続いて、予期せぬ祈りの答えが示されました。その答えは、私の道理に合わない期待の狭さを明らかにし、自分自身をより良いものに変えられます。
「私たちにとって、あるのはトライだけです」
さて、親ならだれでも言うように、誰かが学び成長するのを見るほどわくわくすることはありません。神も同じように感じておられ、わたしたち全員が「現世の学校教育」に合格できるように計画を立てられました。神はベル型の曲線に照らして採点しません。実際、神の計画はわたしたちが間違いを犯すことにかかっています。神はわたしたちが昼も夜も人生の全次元を探求し、信仰の光の中を歩き、不確実な時期を通り抜けることを望んでおられます。
アレキサンダー・ポープは、「少しの学びは危険なものである」と述べています(評論論[1711]、パートII、15行目)。学習の過程で、わたしたちの不十分な言葉や不完全な判断力が宇宙全体を説明して測定するのに十分であると仮定するのは簡単かもしれませんが、ジョセフ・スミスが言ったように、創造の真の理解という点では、わたしたちは「母親のひざにいる幼子」のようです (ウィルフォード・ウッドラフ、CR、1898年4月、 57)。知っていることの光だけに焦点を合わせ、その馴染みの先にあるものを探求することを恐れていると、わたしたちは発見の機会を逃します。同様に、間違いを犯したり、暗闇の中でつまずいたりすると、両親の地下室に引っ込んだり、旅を完全に放棄したくなります。
エリオットは彼の詩「イースト・コーカー」を、改宗プロセスに関する次の洞察で締めくくっています。
静かでありながらも また新たな強さへ進み
さらなる結びつき より深い交わりへ…
…吾が終わりの内に始まりあり [パートV、大意の翻訳]
詩人は、霊的に成長するというわたしたちの挑戦の本質を雄弁に捉えています。わたしたちは「静か」に、暗闇の中で希望を持ち忍耐強く待ち、また「新たな強さへ進み」、信仰によって押し進められて、神との一致に向かって、また暗闇の中を歩いている仲間の聖徒たちとの交わりに向かって歩みを進めなければなりません。光の道の終わりは、霊的な旅の始まりを示しています。進歩することは暗闇に直面することです。
梶井のように、暗闇の中を歩む勇気と信仰を奮い立たせるとき、わたしたちは恐れと、そこに「何が在るかわからない」という困難にもかかわらず、思いもよらなかった美しさと仲間の旅行者を発見することをわたしは知っています。こうして、わたしたちは信仰によって、現在の知識の限られた境界を越えて謙虚な不確かさに進んでゆくにつれ、信仰の薄明かりに照らされてより大きなことを見出し、キリスト自身がわたしたちの前を歩いて、前進の方法を示し、予期せぬ答を提供さえしてくださることもあるのです。
この劇は、正しい道を進んでいるなら、人生の中で何度も繰り広げられます。なぜかというと、そのような変革的な経験はすべての真の学習と知恵の中心にあるからです。エリオットの詩は、この過程におけるわたしたちの責任の範囲を説明しています。「私たちにとって、あるのは努力のみ」(パートV)。それは成長の原則であり、わたしの個人的な信仰箇条であり、常に努力することで、最終的には求める知識にたどり着くのです。わたしたちが信仰を持ち、不確かな暗黒の中へ謙虚に足を踏み入れ続け、自分の弱い理解を超越して、信仰と忍耐によって、すべての被造物の驚異と美しさを見るに至るよう、イエス・キリストの御名によりお祈りします、アーメン。
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J・スコット・ミラーは、2018年10月2日にこのディボーショナルを行いました。