「わたしたちが啓示という岩の上に立つことができますように。特に、主要な疑問について、啓示の岩に立つことができますように。そうするならば、わたしたちは立って永遠に至ります。道をそれることは決してありません。」
必要に応じて翻訳を修正します。何かご提案があれば、speeches.jpn@byu.eduにご連絡ください。
数年前、わたしは中央幹部としての任務で、末日聖徒イエス・キリスト教会や預言者ジョセフ・スミス、モルモン書、回復に関連する出来事を批判する資料をかなり読みました。読んだことのない資料はないくらいです。その任務が変わって以来、私はあの泥沼の中での格闘には戻っていません。
そういう資料を読むと、いつも憂鬱になりました。ある日、その暗い気持ちの中で、そのような批判的な訴えのすべてに不完全ながらも返事を書くことを思い立ちました。その日記録した考えを伝えたいと思います。自分のために書いたのですが、皆さんの助けにもなるように願っています。
今日は他の話をしたいと思っていました。もっと面白く、魅力的な話をいくつか書きました。しかし、新しい話を書くたびに、この話に戻るように導かれました。
あなたは立って永遠に至るのか
預言者ダニエルは、末の日に
「天の神は一つの国を建てられ〔る〕」と言いました。「これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。」1
神の王国とは、末日聖徒イエス・キリスト教会であり、「立って永遠に至る」のです。
問題は、皆さんとわたしが立っているのか、それとも立ち去るのか、ということです。もしも去るとしたら、どこへ行くのでしょうか。
欺きは今の時代のしるし
主は御自分の再臨と世の終わりのしるしについて説明したときに、つまり私たちの時代を説明したときに、多くのことを挙げられました。戦争と戦争のうわさがあり、国が国に対して立ち上がり、飢饉、疫病、地震その他の多くのしるしがあると言われたのです。その中に、次のしるしも含まれていました。
「それらの日(現代)には、偽キリストたちや偽預言者たちも起こって、大きなしるしと不思議を示し、できれば、聖約による選民である真の選民をも惑わそうとするであろう。」2
わたしは「真の選民をも惑わそうとするであろう」という言葉が意味することをすべて理解しているわけではありませんが、少なくともこの聖句は、わたしたちの時代にはだれもが試されるという意味だと思います。
パウロは、「わたしたちは…鏡に映して見るようにおぼろげに見ている」3と言いました。 同様に、命の木の示現でも、最も顕著な特徴の一つは「非常に深い暗黒の霧[が]あった[そして]道を歩き始めていた人々は道を見失い、迷って姿が見えなくなってしまった」4ことです。
欺瞞の多様化
欺く人はたくさんいますし、欺き方は広範囲にわたります。一方には、回復や預言者ジョセフ・スミス、モルモン書を攻撃する人がいたり、回復は信じるものの、教会は欠陥があって間違った道を進んでいると信じている人もいます。また、回復は信じると主張しながら、変化する現代の状況と相いれない教義に幻滅している人がいます。権能がないのに示現や夢を見たとか、神聖な訪れを受けたと主張して教会のやり方を正したり、さらに高い道へとわたしたちを導いたり、世の終わりのための備えを教会にさせようとしたりする人もいます。また、偽りの霊に欺かれている人もいます。
他方には、注意をそらせるものが無数にあります。これほど多くの情報やデマ、うその情報が流れ、これほど多くのものと機器類とゲームがあり、これほど多くの選択肢、行く場所、見るもの、することがたくさんあり、いちばん大事なことに向ける時間と注意を奪われる時代は、かつてありませんでした。そして、そのすべて、それ以上のものも電子メディアによって世界中に瞬時に広がります。現代は、欺きの時代です。
知識
真理を知ると物事がはっきりと見えるようになります。なぜなら、真理とは「現在あるとおりの、過去にあったとおりの、また未来にあるとおりの、物事についての知識」5だからです。知識は、欺瞞を避け、真理と誤りを見分け、現代の危険な状況を明確に見て道を切り開くために不可欠です。
預言者ジョセフ・スミスはこう言っています。
「知識は命と信心になくてはならないものです。…知識は啓示です。兄弟たちよ、この大いなる鍵に耳を傾けてください。すなわち、知識こそ救いを得させる神の力なのです。」6
「自分の信じていることに忠実に従うべきだ」と人は言います。確かにそうですが、自分の知っていることよりも優れたものになることはできません。たいていの人は自分の信じていることに基づいて行動します。自分の利益になると思うことについては特にそうです。問題は、わたしたちは間違えることがあるということです。
神を信じていてポルノグラフィーが悪いと考えているのにサイトをクリックして見ている人がいます。その方が幸せだとか、クリックせずにいられないから仕方がないとか、だれにも迷惑はかけていないし、そんなに悪いものではない、などと考えるのですが、間違っています。
うそをつくのは悪いと分かっているのに時々うそをつく人がいます。真実を知らせない方がいいと考えるのですが、それは間違っています。
イエスがキリストだと信じていて、知ってまでいてキリストを一度ならず3度も否定した人がいます。騒ぎを起こさないほうが無難だと考えたからですが、それは間違いでした。ペテロは悪人ではありませんでしたし、弱い人間でもありませんでした。ただ、間違ったことをしただけです。
悪いことをすると自分は悪い人間だと考えるかもしれませんが、本当は、過ちを犯しただけなのです。ただ、間違えたのです。難しいのは、自分の行動と信じていることとのギャップを埋めることではなく、むしろ、信じていることと真理との間のギャップを埋めることです。それが重要です。では、そのギャップは、どうすれば埋められるのでしょうか。欺かれないためには、どうすればよいのでしょうか。
主要な疑問と二次的な疑問
まずは、主要な疑問に答えましょう。主要な疑問と、二次的な疑問があります。最初に主要な疑問の答えを得てください。すべての疑問が等しいというわけではありませんし、すべての真理が等しいわけではありません。主要な疑問がいちばん大切です。その他はすべて、重要度において劣ります。主要な疑問は少ししかありません。そのうちの4つについてお話しします。
1.わたしたちの御父である神は存在するのか。
2.イエス・キリストは神の御子、世の救い主なのか。
3.ジョセフ・スミスは預言者だったのか。
4.末日聖徒イエス・キリスト教会は、地上における神の王国なのか。
これに比べて、二次的な疑問は数限りなくあります。これには、教会歴史や一夫多妻結婚、アフリカ系の人々と神権、女性と神権、モルモン書の翻訳、『高価な真珠』、DNAとモルモン書、同性婚、最初の示現に関する異なる記述に関する疑問などがあります。
主要な疑問に答えられれば、二次的な疑問にも答えられますし、全ての答えが分からなくても重要なことはわかります。教会を離れることなく、理解できることとできないこと、賛成できることとできないことをうまく処理することができるようになります。
さまざまな学習方法
どうすればその答えを知ることができるでしょうか?学び方は、科学的方法や分析的方法、学術的方法、神の方法など、いろいろあります。神の方法は、ほかの方法の要素も含みますが、天の力を頂くことにより、究極的にはほかのすべての方法に勝ります。この4つの方法はどれも、真理を知るために必要です。どの方法も、スタートは同じです。疑問を持つことから始まるのです。疑問を持つこと、特に主要な疑問を抱くことは大切です。
科学的方法
科学的方法では、質問に対して仮説を立てます。次に、仮説を検証するために実験が行われます。そして、結果が分析され、仮説を確認、反証、または修正する結論が導き出され、その場合、プロセスは続行します。アルマはわたしたちに「〔主の〕言葉を試し」なさいと勧めました。7 主はこう言われました。
わたしの教(おしえ)はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。
神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教(おしえ)が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。8
什分の一に関して、主はまた、「わたしを試み、…わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさい。」と言われました。9
真理は、実行することで発見することができます。それが信仰です。経験は真理を知るために重要な役割を果たします。
分析的方法
分析的方法も重要です。これには、質問に関連する証拠の収集、整理、および重み付けが含まれます。証拠の重みに基づいて、真理が何であるかについて結論が導き出されます。主はオリバー・カウドリに次のように指示されました。
「見よ、あなたは理解していなかった。あなたはわたしに求めさえすれば、何も考えなくてもわたしから与えられると思ってきた。…あなたは心の中でそれをよく思い計り、その後、それが正しいかどうかわたしに尋ねなければならない。」10
証拠と理性も、わたしたちが真理を知るよう備えてくれます。
学術的方法
学術的な方法はもちろん、書かれた文字の研究を含みます。学習も必要です。モルモンは、神の言葉は「剣やそのほか(つまり死の恐れや脅威)、これまで民に起こったどのようなことよりも民の心(つまり考え方)に力強い影響を及ぼした」と言っています。11 神の言葉は何にもまして力強いものです。それは恐れ、依存症、ポルノ、または他のどんなものよりも強力です。ですから、主が「絶えず命の言葉をあなたがたの心の中に大切に蓄えるようにしなさい」と言われるのは当然のことです。12またこのように言われました。「だれでもわたしの言葉を大切に蓄える者は、惑わされることがない」。13
神の方法
神の方法は、ほかの方法の要素も含みますが、天の力を頂くことにより、究極的にはほかのすべての方法に勝ります。神に関する事柄は最終的には神の御霊により、通常、静かな細い声で知らされます。主は言われました。「神はその聖なる御霊によって、すなわち聖霊の言い尽くせない賜物によって、..知識を、あなたがたに与えてくださるであろう」14
神に関することは神の御霊によってしか知ることができないと、使徒パウロは教えました。15 「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。」わたしたちは、毎日そのような場面を目にします。パウロはこう続けます。「また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。」16
この人生で遭遇するすべての問題の中で、ほかの何よりも大切で、何よりも理解されていないものがあります。人が遭遇するあらゆる状況の中で最悪なのは、貧困でも、病気でも、孤独でも、虐待でも、戦争でもありません。これらは悲しむべきものではありますが、最悪ではありません。人にとって最悪の状況は、いちばんありふれたこと、つまり霊的に死ぬことなのです。神の御前から切り離されること、この世においては神の御霊、つまり、神の力から絶たれることこそが最悪なのです。
逆に言うと、人が経験するあらゆる状況の中で最高なのは富でも、名声でも、地位でも、健康でも、人の誉れでも、安全でも、良い成績でもありません。これらのことは素晴らしく、役に立つかもしれませんが、最も重要なのは、再び生まれることであり、聖霊の賜物を頂いて聖霊を伴侶とすることです。聖霊は、知識と啓示、力、明瞭さ、愛、喜び、平安、希望、自信、信仰、その他、良いものほとんどすべての源です。イエスは言われました。「助け主、すなわち、…聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え…るであろう。」17それは、わたしたちが「すべてのことの真理を知る」ことのできる力です。18…聖霊は、…なすべきことをすべて〔わたしたちに〕示されるであろう。」19それは、湧き出て永遠の命に至る、「生ける水」の源なのです。20
御霊の声は通常、静かな細い声でありながら、常に確かで、心を貫き、浸透し、教化し、元気づけます。主はこう言われました。
「また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない」21
どんな代価を払わなければならないとしても、どんな重荷を負わなければならないとしても、そして、どんな犠牲を払わなければならないとしても、聖霊とその力を得て、保ち続けてください。良いことはすべて、聖霊の力を得て、それを保つかどうかにかかっています。すべてはそれにかかっています。
「人を教化しないもの」
さて、わたしが数年前、教会に批判的な資料を読んで憂鬱になったのはなぜだったのでしょうか。憂鬱は信念バイアス、つまり、自分の想定や信念に合っているものだけを選ぶ傾向の産物だという人がいるかもしれません。自分が信じていることや教えられてきたことはすべて間違っていると考えると憂鬱になりますし、心細くなります。それに代わる良い考え方がない場合は、特にそうです。しかし、預言者ジョセフ・スミスやイエス・キリストの教会の回復に反対する声に耳を傾けたときにわたしが経験した憂鬱は、これとは違っていました。その憂鬱は信念バイアスでもなければ、自分が間違っているのではという恐れでもなく、神の御霊の不在なのです。それが正体なのです。「一人放置されて」いる状態です。22暗く憂鬱になり、「思いが鈍くなり」ます。23
主は言われました。
「また、人を教化しないものは、神から出てはおらず、暗闇である。
神から出ているものは光である。光を受け、神のうちにいつもいる者は、さらに光を受ける。そして、その光はますます輝きを増してついには真昼となる。」24
神の御霊による啓示が信念バイアスを超越しているのは、それが証拠のみに基づいているのではないからです。わたしは、生涯をかけて主の言葉を聞こうと努め、神の御霊を認識してそれに従おうとしてきました。預言者ジョセフ・スミスやモルモン書、回復を攻撃する闇の声に関係する霊は、光と英知と真理の霊ではありません。神の御霊はそれらの声の中にはありません。私は多くを知りませんが、主の声は知っていますし、主の声はあの闇の声ではありません。絶対にちがいます。
疑問のどろ沼にはまると押し寄せてくる憂鬱や鈍い思いとまったく対照的なのは、光と英知、平安、真理の霊です。回復の出来事や教義、特に預言者ジョセフ・スミスを通して全世界に啓示された聖文には、この霊が伴います。とにかくこの聖文を読んで、それが虚偽や欺き、妄想なのか、それとも真理なのか、自分自身と神に問いかけてください。
消去法で真理を知ることはできない
教会は真実ではないかもしれないと考え、二次的な疑問のどろ沼にはまって時間と注意を奪われている人がいます。そのような人たちは、消去法という間違った方法で真理を知ろうとしています。疑わしいものをすべて切り捨てようとしているのです。この考え方は、常に間違いです。決してうまくいきません。このアプローチはゲームでしか機能しません。
しかし、人生はそれほど単純ではありません。真理を覆そうとして突きつけてくる主張や異論には際限がありません。批判的な主張にどうにか答えられたかと思うと、別の主張が待ち構えています。耳をふさぐべきだと言っているのではありません。私が言いたいのは、教会を否定する主張に対する回答をしらみつぶしに必死で探し求め、最も大切な真理を知ることができないまま生涯を終わることもあるということです。
二次的な疑問に答えることによって、主要な疑問の答えが見つかるのではありません。二次的な疑問に対する答えはありますが、否定的な主張にすべて反証することで、肯定を証明することはできないのです。教会を非難するすべての主張に反証を挙げることによって教会が真実だと証明することはできません。決してできないのです。この方法は間違っています。最終的には肯定的な証拠が必要で、神に関することでは、究極的にはかならず御霊や聖霊の力による啓示によって、肯定的な証拠がもたらされます。
イエスは弟子たちにこう言っておられます。
「『あなたがたはわたしをだれと言うか』」。
シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子キリストです』。
すると、イエスは彼にむかって言われた、『バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
…あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。』」25
イエス・キリストの教会は、啓示という岩の上に土台を置いているため、黄泉の力もそれに打ち勝つことはありません。教会とは、私たちなのです。教会とは、皆さんとわたしのことです。わたしたちは啓示という土台の上に基を置かなければなりません。すべての疑問の答が分かるわけではないとしても、わたしたちは主要な疑問の答を知っていなければなりません。そうすれば、黄泉の力もそれに打ち勝つことはなく、わたしたちは立って永遠に至るのです。
「神に出来ない事はない」と信じる
最後に、信じてください。「神に出来ない事はない」と信じてください。26 わたしたちは皆、時に非日常的な事に驚かされるかも知れません。例えば、水の上を歩いたり、パンと魚を増やしたり、死者をよみがえらせたり、金版を特別なレンズや石と帽子で翻訳したり、天使が訪れたり。一部の人々には、並外れたことを信じることも難しいのです。非日常的なことは信じがたいかもしれませんが、そう驚くこともありません。なぜなら、普通で日常的なことの方が、はるかに驚異的だからです。
最も驚異的な出来事、偉大な神秘、不思議ですばらしい発展は、最も一般的で、広く認識されている事です。たとえば、私やあなたが存在し、私たち皆が存在すること。そして、素粒子から宇宙の最果てまで、生命の奇跡すべてを含めて、私たちが知覚できるすべてが存在します。そんな普通の現実より、もっとすごいものがあるでしょうか?いいえ、それに近いものさえありません。既存のものより偉大な事は想像もつかないし、ましてや説明もできません。
今あるものを鑑みれば、何も驚くことはないはずです。神はあらゆることがお出来になると信じるのは簡単なはずです。
なえた手が癒されるということは、そもそも手が存在するということほど驚くべきことではありません。存在するのであれば、壊れたときに必ず直せるということになります。より大きな出来事は、その癒しではなく、その創造にあるのです。
復活よりも神秘的なのは誕生です。さらに不思議なのは、かつて存在した生命が戻ってくることではなく、生命自体が常に存在するということです。
死者をよみがえらせるよりも驚嘆に値するのは、私たちが生きているということです。止まった心臓が再び動き出すことは、今あなたの胸の中で鼓動する心臓ほど荘厳ではありません。
石の上や特別なレンズを通して、金の板に書かれた古文の現代語訳を見ることができたということは、人間の目よりもはるかにささいな神秘です。不思議なのは、人間の目が何を見るかではなく、むしろ物事を見られるということです。
天使や金版や自分の神聖な可能性などの並外れたものをどのように信じることができますか。簡単です。ただ周りを見回し、信じてください。
豚に羽が生えて空を飛ぶことがあるのか知りませんが、もしそうなったとしても、空飛ぶ豚はそもそも普通の豚のような素晴らしさはないでしょう。
疑いと質問
最近、誰かから「疑いがあってもいいんだよ」と聞きました。
それはどうでしょう。主は、「あらゆる思いの中でわたしを仰ぎ見なさい。疑ってはならない。恐れてはならない」と言われています。27 私にはたくさんの質問がありますが、何の疑いもありません。
結論
永遠の父なる神が天におられます。わたしはそれを、身をもって知っています。全ての経験を通し、また証拠により、知っています。圧倒的な証拠です。わたしはこれを、研究を通して知っています。そして何よりも、聖霊の御霊と力によって知っています。
イエス・キリストは神の子であり、世の贖い主であられます。わたしはこのすべてを、身をもって知っています。証拠を通して知っています。圧倒的な証拠です。わたしはこれを、研究を通して知っています。そして何よりも、聖霊の御霊と力によって知っています。
ジョセフ・スミスは、神の王国を回復する基礎を据えた神の預言者です。わたしはこのすべてを、身をもって知っています、証拠を通して知っています。圧倒的な証拠があります。わたしはこれを、研究を通して知っています。そして何よりも、聖霊の御霊と力によって知っています。
末日聖徒イエス・キリスト教会は、地上における神の王国です。わたしはこのすべてを、身をもって知っています。わたしはこのことを、証拠を通して知っています。圧倒的な証拠があります。そして何よりも、聖霊の御霊と力によって知っています。
以上、4つを知ることにより、わたしは立って永遠に至るために知るべきことを、すべて知っているのです。
わたしたちが啓示という岩の上に立つことができますように。特に、主要な疑問について、啓示の岩に立つことができますように。そうするならば、わたしたちは立って永遠に至ります。道をそれることは決してありません。イエス・キリストの御名により、アーメン。
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- ダニエル書2:44.
- ジョセフ・スミスーマタイ 1:22; see also マタイ 24:24.
- 第一コリント 13:12.
- 第一ニーファイ8:23.
- 教義と聖約93:24.
- Joseph Smith, Nauvoo, Illinois, in “Discourse, 21 May 1843, as Reported by Martha Jane Knowlton Coray,” Notebook, 40, Joseph Smith Papers Project, josephsmithpapers.org/paper-summary/discourse-21-may-1843-as-reported-by-martha-jane-knowlton-coray/5; emphasis added.
- アルマ 32:27.
- ヨハネ 7:16–17.
- マラキ 3:10.
- 教義と聖約 9:7–8.
- アルマ 31:5.
- 教義と聖約 84:85.
- ジョセフ・スミスーマタイ 1:37.
- 教義と聖約 121:26.
- See 第一コリント 2:9–11; see also JST, 1 Corinthians 2:11.
- 第一コリント 2:14.
- ヨハネ 14:26.
- モロナイ 10:5.
- 第二ニーファイ 32:5.
- ヨハネ 7:38; see also verse 37.
- マタイ12:32.
- 教義と聖約 121:38.
- 教義と聖約 9:9; see also verse 8.
- 教義と聖約 50:23–24.
- マタイ 16:15–18; see also verses 13–14.
- マタイ 19:26; see also Luke 1:37.
- 教義と聖約 6:36.
中央幹部七十人のローレンス・E・コーブリッジは2019年1月22日この話をしました。