もし時間を戻すことができたら、学んできたことを失わなければならないでしょうか? 学んだ事を返上するのはいやです。いつも望みがかなっていると、まだ見ぬ利点を逃すことになるかもしれません。
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娘のステファニーが5歳のとき、入園手続きをするために幼稚園に連れて行きました。到着すると、娘は教師や他の子供たちと「ゲームをする」ように教室に呼ばれました。私は元小学校教員なので、その「ゲーム」がクラス分けテストだと確信していました。
クレヨンの箱と白紙を持った先生が部屋のすぐ外に座っていました。ステファニーが好きな色を選んで名前を書くように言われると、わたしはホールの向こうで自信たっぷりに微笑みました。「あの子は家族全員の名前を書けるくらいだわ!すっかり備えができて、あの部屋で出来ないことは何もないわ!」と私は思いました。でもステファニーは、ただつっ立ったままでした。先生が指示を繰り返すと、娘は静止したままで、膝を固め、背中の後ろに手を組んで、クレヨンの箱をぼんやりと見つめ続けました。
我慢強くやさしい声で、先生はもう一度言いました。「ステファニーちゃん、好きな色を選んで、この紙に名前を書いてちょうだい」わたしが娘を助けようとすると、先生はやさしく「大丈夫よ。秋に学校に来たら、名前の書き方を学びましょうね。」と言いました。わたしは出来る限りの自制心を働かせて、娘が名前の書き方を知らないと思っている教師と一緒に教室に入っていくのを見つめました。家に帰る途中、さりげなく、なぜ名前を書かなかったのかとステファニーに尋ねました。「わたし、できなかった。先生は私の好きな色を選ぶようにって言ったけど、箱にはピンク色はなかったよ」と娘は答えました。
子供たちの成長を見ていく中で、この出来事をよく振り返ります。天の御父の子供であるわたしたちは、自分の望む選択肢がないときに、少なくとも望むタイミングではないときに、何も出来なくなり、立ち止まることが、一体何度あることでしょう。
大学で希望の専攻を拒否された時や、必須クラスへの登録を締め切られてしまったとき、望んだ仕事がうまく手に入らないとき、好きな人との関係が友達以上に発展しないとき、または期待したお金が手に入らないとき、わたしたちの進歩は止まってしまうのでしょうか? 理解し難い理由で、あるいは自分がコントロール出来ない理由で、自分自身が思い描いていなかった状況に直面する時があるでしょうか?言い換えれば、箱の中を見て、ピンクのクレヨンがそこにないと私たちはどうするでしょうか? 望むことや夢見ることが私たちの手に届かないときに、立ち止まり、膝を固めて、背中の後ろに手を組んで、何もしないのはとても簡単です。でもそれは、わたしたちがこの地上に置かれている、他でもないその目的に反します。理解するのが難しいときもありますが、障害物はわたしたちの進歩に不可欠です。
主が言われたことを思い出してください。「 たとえあなたは艱難を経験するように定められても、…このことを知りなさい…これらのことはすべて,あなたに経験を与え,あなたの益となるであろう」(教義と聖約122:5-7)。
わたしは、昔ヨセフが兄たちにエジプトへ売られたとき、どんな気持ちだったのかとよく考えます。彼は、自分の良い人生は終わり、二度と喜びを経験することはないと思っていたのでしょうか。アブラハムとイサクはどうでしょう。彼らは、あの恐ろしい犠牲の戒めがなぜ自分のもとにきたのか不思議に思ったでしょうか。サラ、リベカ、ラケル、ハンナは、不妊という恥辱の試練にあったとき、どのように感じたでしょうか。当時それは神の不興のしるしと解釈されていたのです。リーハイとサライアは、エルサレムの家や友人をおいて逃げ、荒れ野に住んだとき、どのように感じたでしょう。そしてこの神権時代に、もしチャンスがあったなら、ジョセフとハイラムは自分たちが直面したような困難を選んだでしょうか。
聖文に記されている、これらの人々の人生を学ぶとき、いかに逆境に打ち勝つかは楽に見通せます。でも私たち自身の日常生活で、不満以外のものを見ること、集中し続けること、初めから終わりを見据えることは難しいのです。
リチャード・G・スコット長老は1991年10月の総大会で次のように教えています。
「たとえこの世で大きな苦しみに遭ったとしても、主の永遠の計画のことを考えて、どうぞ深く主を信頼してください。待つよう求められたら、どうぞ忍耐強く待ってください。…皆さんがこの人生で歩む道は、ほかの人々の道とは随分異なるかもしれません。主がなぜそのようなことをなさるのか、わからないときもあるでしょう。しかし、主がまったく公正なお方であり、また完全な愛と慈悲を持っておられる方であることはわかると思います。〔「主から助けをいただく」『聖徒の道』1992年1月号、86ページ〕
息子のトムが12歳のとき、プロバスケットボール選手になることが夢でした。夜おそくまで練習していたにもかかわらず、息子はチームで一番上手な選手ではないことを心配し、さらに背が低すぎることも心配していました。ある晩、「目標を達成できなかったら僕はどうなるの?」と尋ねたことを覚えています。私たちは、選択や個人差、試練、そしていつ忍耐すべきか、いつ方向転換すべきかを知る方法について長い間、話し合いました。
トムは高校のチームに入りましたが、他にもっと上手く出来ることが見つかったとき、方向を変えました。彼が十代だった時には、選びたかったクレヨンは彼の前にありませんでした。自分の人生を他の選択肢で彩らなければなりませんでした。12歳の時、彼はプロバスケットができないとしたら自分の人生には価値がないと思っていましたが、今、27歳で、彼は自分がやっていることに成功を感じ、職業に満足しています。
人生はそのようなものです。12歳、20歳、42歳、72歳でさえ、望むことは、そのときに与えられている機会や選択肢に合わせなければいけません。
数年前、私と妹は浜辺を歩きながら、人生や、試練に対処する能力について、非常に真剣な話をしていました。「私は十分長く生きてきたから、どんなチャレンジが来ても対処できると思うわ」と私は天真爛漫に言いました。
「私もできると思うわ」と妹も即答しました。
そのとき、彼女はわたしが決して忘れられない質問をしました。「ジャネットにとって、一番難しい試練はなに?」
考える必要すらありませんでした。すでに知っていました。「わたしにとって最もつらいのは、夫が死ぬこと。レックスのいない人生は想像できないわ。」と答えました。
「それはそうね。でも私にとって、離婚はもっと辛いことだと思うわ」と彼女は答えました。
わたしたちの恐れは現実ばなれしていました。レックスはマラソンを走っていて、健康そのものでした。姉の結婚生活はほぼ安泰に見えたので、私たちは現実にはなり得ないような心配に笑いました。
わずか8か月後、レックスは病院で死にかけていました。そしてすでに妹の離婚手続きも始まっていました。あの日の会話とそれからの1年間を思い出すと、いつもほろ苦い思い出がよみがえってきます。姉とわたしは選ぶチャンスがあったら、自分の箱からそのような色を決して選ばなかったでしょう。ですが、箱の中にある色から選び、人生を切り抜けなければなりませんでした。今日、彼女は素晴らしい男性と再婚し、幸せであり、レックスとの私の人生は豊かで充実しています。わたしにチャンスがあれば、自分が与えられた試練を選びませんが、その経験を通して、より深い意味、より大きな理解、そして新しい洞察に毎日、満たされています。もし私が今、今までの試練を取り除くことができるとしたら、すぐにそうするでしょう。私は夫が癌を患っているという事実が嫌いです。それはまさしく私が思い描いていた人生からかけ離れています。 しかし、もし時間を戻すことができたら、学んできたことを失わなければならないでしょうか? 学んだ事を返上するのはいやです。いつも望みがかなっていると、まだ見ぬ利点を逃すことになるかもしれません。哲学者のラルフ・ウォルドー・エマーソンは「逃してしまったすべてに対して、別の何かを得ているのである」と言いました。(Essays: First Series [1841], “Compensation”).
ステファニーとクレヨンの話を聞いた後にある人が書いた手紙の一部を引用します。
「私は好きなクレヨンの色を全部持っているわけではありませんが、必要な色は全部、持っています。生活の中で新しい色や違う色が必要なとき、天の御父はその色をちゃんと与えてくださいます。私は主が乗り越えられない試練をお与えにならないことを知っています。また自分が抱えているチャレンジや試練は実は祝福であり、それを経験することでさらに学び、強くなることも知っています。」
神が生きておられ、わたしたちの祈りを聞き、答えてくださることを知っています。そして神がわたしたちを愛しておられて、わたしたちが御自分のみもとに戻ることを望んでおられるので、人生の困難を乗り越えるように助けてくださることを証します。わたしたちが使うどんな色でも、人生を美しく彩ることができるように祈ります。イエス・キリストの御名によって、アーメン。
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レックス・E・リー夫人、ジャネット・G・リーは、1992年1月14日にブリガム・ヤング大学でこのディボーショナルの講演をしました。