間違いを犯すことは単に人間が遭遇するあらゆる状況の一部であり、学ぶのにもっとも良い方法の一つとなり得ます。もちろん、自分の間違いを認識する必要があります。しかし、それ以上に、間違いを犯しても効果的にやり遂げる方法を見つけなければならないのです。
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間違っても弾き続ける
音楽は常にわたしの人生において大きな役割を果たしてきました。幼少期の主要な思い出は音楽と関係しています。例えば、家族と車で旅行に行くときに、暇つぶしに一緒に歌ったり、母と姉妹と一緒に散髪屋さんの音楽を学んだり、クリスマスツリーを飾りながらレコードプレーヤーで「ティファナブラスバンド」を聴いたり、家庭の夕べで父の好きな歌「家庭の愛」を歌ったり、そして母が毎週聖餐会でオルガンを弾く姿に憧れたりする思い出などがあります。母は80歳になった今でもそうしています。幼い頃、音楽が大きな役割を果たしていたことを考えると、8歳から17歳までの10年間、ピアノのレッスンを受けていたことを知っても驚かないことでしょう。
わたしの最初のピアノの先生(ここではスミス夫人と呼びます)はとても厳しく、ピアノの上達に大きな期待を抱いていました。レッスン中、彼女はわたしがピアノを弾いている間に楽譜を鉛筆でなぞっていました。時々、わたしが不協和音を出したり、指の使い方を間違えたりすると、スミス夫人はわたしの指を鉛筆で叩いたものでした。彼女はわたしが間違ったことに気付かせ、それを修正できるように助けてくれているつもりでした。しかし、残念なことに、あの恐ろしい鉛筆に何度も叩かれた経験から、音楽の間違いに対処する最も痛みの少ない方法は、できるだけ早く鍵盤から離すことだと学びました。
家で練習する時でも、間違うと急にやめてしまう癖が、知らないうちに強まっていました。わたしたちのピアノは、キッチンの向かいの壁に置かれていました。実際、コンロと背中合わせになっていました。母が壁の向こうで夕食を作っている間、わたしはよく練習していました。わたしが間違う度に、母は「アッ」とスタッカートの音を出したものです。不意を突かれたわたしが、すぐに鍵盤から手を離すということがよくありました。
これは彼女が望んでいた結果ではなかったことを知っています。なぜなら、彼女がオルガンやピアノで間違ったときにも同じことをするのを聞いたからです。彼女は今でもこうすることがありますが、それはあくまでも練習のときだけなのです。彼女がオルガンやピアノの演奏をするときは、間違うことはほとんどありませんし、ミスがあっても目立つことはありません。彼女は何事もなかったかのように、間違っても弾き続けます。その一方で、わたしはそのようにすることができません。
スミス夫人とのピアノ発表会のほとんどは、わたしのホームワードの建物の礼拝堂で行われました。これらは敬虔な機会でした。わたしたちが順番にグランドピアノを弾く度に、演奏が終わる度の拍手はなく、ただ出席者からの上品な笑顔が浮かびました。楽譜を使うことは許されていなかったので、ピアノに向かって赤いビロードの3段を上っていくのは、武装せずに戦場に足を踏み入れるような気分でした。わたしは間違って、鍵盤から手を離し、指を置くための正しい位置をまた見つけられなくなってしまうことを恐れていました。
大人になっても、この恐怖はまだ襲ってきます。わたしが公認会計士の仕事を始めてまだ数年で、家に二人の幼い子供がいたころ、わたしは扶助協会のピアニストに召されました。
最初の1週間は大惨事でした。「子供の歌集」(弾きやすい曲が入っているので選びました)の後ろにある前奏曲を何曲か弾いてから、発表の間に気持ちを落ち着かせるため深呼吸の練習をしていました。その後、いよいよわたしの出番がきました。開会の讃美歌の最初の和音を弾き始めましたが、イントロが終わる前に不協和音を鳴らしてしまい、当然のことながら、手が鍵盤から離れてしまいました。一、二小節の間、パニックになりましたが、必死に調子を戻そうとしました。いつものように、指揮者はすべての歌詞を歌い終わるまで会衆を導きました。会衆が長く歌うにつれて演奏が下手になり、最後の歌詞となると旋律だけを弾くという状況に陥りました。
この小さな出来事は毎週、代わり映えがしない再放送のように繰り返し、やがて会長会の一人がわたしが練習出来るように教会の鍵が欲しいかと尋ねてきました。しかし、わたしは家にピアノがあることを丁寧に説明し、お断りしました。わたしはその月のうちに解任されました。
今日に至るまでわたしは家で一人で練習するときであっても、最も簡単な讃美歌である「祈りは楽しき」(「賛美歌「81番」)でさえ、止まらずに弾くことができません。それは、もしもあり得ないほど運がよく一曲全体を通して間違わずに引き続けることが出来る場合を除いてですが。そのため、わたしはピアノのレッスンを受けていたことをあまり話さないようにしています(今、うっかり秘密を漏らしてしまいましたね)。わたしはあまりにも自分の間違いに麻痺してしまうので、ピアノを弾いても役立たずのままです。
麻痺してしまうことはわたしのせいではなく、教え方のせいだと言うのは簡単かもしれません。しかし、わたしはスミス夫人にも母にもこの問題の責任を負わせることができません。なぜなら、わたしの姉妹のテリーにも、同じ鉛筆を持つ同じピアノの先生がおり、台所からの母親の「アッ」という音を聞き、同じ発表会の環境があったからです。それにもかかわらず、彼女は多くの演奏家の伴奏をしたり、仕事のパーティーで演奏したり、教会でピアノとオルガンの両方を演奏したりして、音楽の訓練と才能で、広く人々の生活を祝福してきました。
自分の過ちで自分自身が麻痺することを許せば、神の王国に役立つ能力が弱まります。間違いを犯すことは人間が生きる上での一部に過ぎず、学ぶためにもっとも良い方法の一つとなり得ます。もちろん、自分の間違いを認識する必要があります。しかし、それ以上に、間違いを犯しても効果的に弾き続ける方法を見つけなければならないのです。
数年前、若い女性キャンプディレクターに召されたとき、わたしはウクレレを習い始めました。ピアノのレッスンのおかげで、ほんの数週間でキャンプの歌をたくさん覚えることができました。わたしは今でも家族が歌っているときにウクレレを弾くのが大好きで、時々ウクレレを使って会計学に関する短い歌を書いています。あ、生徒たちはとても喜んでいますよ。わたしはウクレレでも間違いますが、それで弾くことをやめることはありません。
今日、皆さんに話そうと選んだ話を分かち合うのは簡単ではありません。これらはわたしの人生において誇らしげに思う出来事ではなく、通常は自身満々のプロフェッショナルな仮面を着けるようにしています。しかし、弱さの価値と、弱さを認めることからもたらされる強さに感謝するようになりました。わたしの失敗談を幾つか紹介することで、皆さんの失敗に対する感謝の気持ちが少しでも見つかれば幸いです。
参加してやってみる
3年前、わたしの学科の教員数名がスキーインストラクターのクラスを一緒に受講することになりました。この考えに至った理由は、教員同士で全く専門外のことを教える練習を金曜日の午後に学ぶとともに、友情を深めながら一緒に楽しい時間を過ごすためでした。わたしを含めて何人かは、伴侶もその楽しい活動に誘いました。
わたしたちは教室で初めて顔を合わせ、新しいクラスメートたちと自己紹介をしました。その過程で、生徒たちは自己評価したスキーの能力についてコメントをしました。わたしは、自分がコースの受講要件をもっとも満たしていない生徒であろうということに気が付き、少しずつ不安を感じ始めていました。
翌週、わたしたちはサンダンスで会い、リフトのそばの平坦なエリアでかなりの時間を過ごし、装備の説明や、スキーの履き方・脱ぎ方、リフトの乗り降りの仕方など、初心者を教えるためのコツを習いました。簡単なゲームを何度か一緒にして、グループ内での自分の位置に少し自信が持てたのを覚えています。アローヘッドのリフトに乗ってリゾートの頂上まで登るまでは、その授業はわたしにとって比較的、順調でした。
リフトに乗る前に、頂上で右の方に降りて、ベアクローランのスタート地点までスキーを滑り、それから左下を見て、インストラクターがクラスを集めているのを見るように指示を受けました。その後、わたしたちはそのグループに加わり、山を下りる前に能力別に分かれることになっていました。ベアクローの頂上までは難なくたどり着いたのですが、クラスメートが先に待ち合わせ場所までスキーをしているのを見た瞬間、体が固まりました。仲間についていこうとするなら、不可能と思われる角度で滑らなければならなかったのです。わたしはそのようなルートを滑ったことがなかったので、すぐに他の選択肢を探し始めました。
山をまっすぐ下りるのではなく、山を水平に行ったり来たりしながら滑り、それほど激しくない下山の方法で目的の場所まで下りることにしました。深呼吸をして、木々に向かって右方向にスキーを滑り、それからわたしのクラスに戻ることが出来るように出来る限りの急激な方向転換をしました。しかし、わたしの誤算か、あるいはターンの技術が効かなかったのか、どうやらこのペースで山の斜面を下れば、グループを超えてしまい、はるかに下の方まで行くことに気づきました。このことに気づいて慌てふためき、こけてしまいました。
コースの講師の一人であるマークは、急いでわたしのところにやって来て、幾つかのアドバイスをくれました。彼にとって苛立たしいと思われる瞬間が過ぎてから、彼はグループに向かって、彼はわたしと一緒にいるということと、他のクラスのメンバーは先に進むようにと叫びました。クラスは上級者(夫のスペンサーを含めて)、中級者、そしてわたしだけのグループに分かれていました。とても恥ずかしく感じました。
マークはわたしと一緒に残り、山を下るために指導してくれました。他に選択肢がなかったので、わたしは彼のアドバイスに耳を傾け、彼の動きを真似するために最善を尽くしました。その日の大半のことは、ほぼ覚えていません。わたしはマークの忍耐強い指導と、この状況の無益さについて、代わる代わる思いを向けていました。
その日、わたしはクラスに戻れるかどうか分からないまま、サンダンスを後にしました。そして、同僚とまた月曜日の朝に顔を合わせたらどうなるか心配しました。気さくにからかわれたり、茶化されたりすることを期待しましたが、逆にそうすることはなく、単に一緒に違うことができたことがどんなに楽しかったかを話し合っていました。驚いたことに、誰もわたしができなかったことに焦点を当てることなく、むしろ、自分自身の改善点や学び続けたいという望みについて話しました。彼らの熱意はわたしに伝わり、クラスを修了しようと内心で決意しました。
最初は一人で滑ることが多く、大変でした。わたしは一日にして 素晴らしいスキーヤーになることはありませんでしたし、これからもそうなることは、ないでしょう。コースが終了するまでに、何度か中級グループに加わりましたが、山を下るときにはいつも最後尾でした。それでも、自分が上達したことが分かりました。
この経験を通して、「やってみる」ことの価値を深く認識しました。自分に唯一求められるものは、ありのままで参加して、やり始めることだけなのです。経験のレベル、失敗の経験、自分の可能性に対する認識などを問わず、人生のどのような立場にいても参加して挑戦するだけでいいのです。救い主の忍耐強い導きに耳を傾け、主の動きを真似し、あなたの動きが追いつかないときの否定的な独り言は無視するようにしてください。そして、失敗したときに敗北に対してではなく、学ぶことへの喜びに焦点を当てるようにしてください。そして、皆さんの「挑戦」のさなかにあって、周りの人々もそれぞれの「挑戦」の途中にあることを認識してください。たとえ他人が自分よりも先に進んでいても、他人の進歩を祝ってください。そして、彼らが期待外れなように思える時でも、許しあげてください。
わたしは教室での経験を通して、失敗は永続的な知的学習を生み出す最良の方法の一つであることを知りました。『Make It Stick』〔使える脳の鍛え方〕成功する学習の科学の著者から紹介しましょう。
「問題を解決しようとして失敗した場合、後で答えがわかったときに、深い処理が促進され、単に答えを読んだり、または与えられたりだけでは不可能な方法、記憶に残る肥沃な土壌が作成されます。」[Peter C. Brown, Henry L. Roediger III, and Mark A. McDaniel (マサチューセッツ州ケンブリッジ: ハーバード大学出版局のベルナッププレス、2014年)、88]
彼らが苦しんでいることも知っていますが、わたしの学生たちが経験するこのような失敗の時を楽しみにしています。教師として、失敗が認識と理解へ移行するのを見ることはやりがいのあるものです。
失敗は身体的な発達にも役立ちます。筋肉を故障するまで戦略的に鍛えること、つまり、持ち上げたり、押したり、引いたりしているものを持ち上げたり、押したり、引っ張ったするのをできなくなるまで動かし、筋線維が修復するのに十分な時間を確保することは、筋力をつける最も効果的な方法の1つです。故障と修復のプロセスは、やがてより強く効率的な筋肉をもたらします。
健康とフィットネスを改善するために、わたしは最近フィットネストレーナーと一緒に運動しています。わたしのトレーナーのジョシュは、この失敗の考え方を重要視しています。彼は、セットの終わりに、わたしが失敗する動きや重さを選択し、どういうわけか、わたしがそれを終えることが出来るように助けを与えるタイミングを知っています。彼が最後の数回の失敗したレップ (反復)を手助けしてくれる際に、ニヤニヤと笑っているいることが、わたしを苛立たせていることもありましたが、今では、わたしが失敗を見えているところでは、彼には進歩が見えていたのだと理解しています。わたしが学生たちの失敗する経験を楽しみにしているのと同じように、彼もそのような時を楽しみにしています。なぜなら、わたしが成長するにあたって、彼もその成長への実際の参与者となることができるからです。
もし失敗がわたしたちの知的および身体的向上に重要であるなら、おそらく、それは完全を求めるわたしたちの旅においても重要なのかもしれません。わたしたちが経験する極限状態は霊的な進歩に不可欠であり、その状態においてのみ、わたしたちは学ぶ準備ができているということを、救い主はご存じということなのでしょうか?残念なことに、最も助けが必要なときに助けを受け入れることは難しい場合があります。
助けを受け入れる
2008年3月、わたしの以前の学生であるマイクとテイラーの2人が、わたしの家族をスパニッシュ・モス洞窟での洞窟探検に招待してくれました。わたしたちのロッククライミングの経験は浅かったのですが、わたしたちは招待を受け入れることを楽しみにしていました。マイクはその約束の朝に、わたしたちを少しのトレーニングのために室内ジムに連れて行ってくれました。その後、洞窟の入り口までロック・キャニオンを8キロぐらい登りました。
到着後、マイクとテイラーは数分間かけて金属のゲートを解錠し、洞窟に降りるために使用するロープを整えました。テイラーが最初に中に入り、次にわたしの番がきました。
最初の下降では、コルクの栓抜きのような岩の亀裂を降りてゆき、そのらせん状の亀裂を4.5から5m降りると、ようやく、洞窟のドーム型の天井に通じます。亀裂を通り抜けると、わたしたちはそれぞれ、洞窟の中腹腹部にまで続く傾斜した地面に向かって、約15メートルの懸垂下降をしました。
わたしたちは数時間、探検をして、その途中にある奇妙な形の生成物に驚きました。標識の少ない道を通りながらわたしたちの唯一の光源は、時折、夫のカメラから発されるフラッシュを除いて、ヘッドランプによって生み出される光のみでした。わたしは目の前の小さい円形の部分しか見ることができず、それはすぐに暗闇に溶け込んでいきました。暗闇と不慣れな地形に阻まれ、その進行はゆっくりとしたものでした。
わたしたちが帰り道に進む直前に、テイラーは洞窟の底で、娘のシャマエ、スペンサー、そして息子のライリーの写真でわたしの家族の写真を撮りました。冒険のこの時を思い出すのが好きです。なぜなら、家族との素晴らしい冒険を経験し、興奮に満ちた感覚を思い出すからです。その写真はわたしの経験の最高の時を表しています。わたしは何か違うこと、比べようのないこと、そして特別なことを成し遂げて、大勝利を収めたような気分でした。しかし、わたしはそれから同じ気持ちとともに洞窟の外に出ることはありませんでした。
帰り道は下りよりも困難でした。その主な理由は光が不足していたからです。その時撮った写真を見返すと、数メートル先に通路の横に障害物のない道があったのに、どうして自分が岩の上を越えようとしたのか不思議に思います。今では、フラッシュのおかげでその道筋が見えますが、その時には、そのルートがはっきりと見えませんでした。
わたしたちはドーム型の空間に戻りましたが、本当の難題はこれからでした。わたしたちはまだ上方に渦巻く岩の出口に消えていた、天井から吊るされたロープを登らなければなりませんでした。そして今回は、楽に降りるのではなく、登高器の助けを借りて登るのです。
マイクが最初に上昇し、2本目のロープで自分を固定し、わたしたちを助ける準備ができました。わたしの番が来ると、テイラーはロープの下部を安定させたら、マイクはコルクの栓抜きのようになっている場所に移動し、わたしを指導してくれました。わたしはその日の朝に登高器の使い方を学んだばかりで、クライミングジムでは簡単にできるように思えたのですが、その時は手足を一緒に動かすのに苦労しました。
わたしはロープの半分ほど登ったところで、足を休めるためにクライミングハーネスにもたれかかり、止まる必要がありました。しかし、恐怖に捕らわれていたので、手をロープから離して休ませることができませんでした。わたしは登高器にしっかりとしがみつき、ロープから手を放そうとしなかったので、手を休めることができなかったのです。数分間、地面から8メートルほどの高さでぶら下がり、登り続けるために必要な力を奮い起こそうとしました。
わたしは最後の力を振り絞り、上の登高器がもう動かなくなるまで、見えているロープの長さを登り続けました。上の岩にたどり着いたので、登高器から手を放さないといけませんでした。これが、手掛かりを見つけて登り続ける唯一の方法でした。
再び恐怖に捕らわれ、手を放す力も精神的な強さもなかったのです。全身の筋肉が震え、洞窟での生活がどのようなものなのか考え始めました。このパニック状態の中、マイクが頭上で話ているのが聞こえてきました。彼はわたしにリラックスして落ち着くように、手をどこに置けば良いかを指示してくれていたのです。
わたしはヘッドランプを上に向けて進路を照らしましたが、良さそうなつかまる所が見当たらなかったので、マイクに「無理です」と言いました。
彼を見るために、また上を見ましたが、岩の曲がり具合のために、彼の声しか聞こえませんでした。彼は様々な指示を試みましたが、わたしは決して登高器から手を放すことは絶対に出来ませんでした。わたしは岩を信頼しませんでしたし、自分自身を信頼しませんでした。そして、しがみついている装備から感じる安全感を離れる自分の能力も信頼しませんでした。わたしは上方で何かが動いているのが聞こえた後で、何も聞こえなくなったのを覚えています。それから、マイクはわたしに彼の手を取るように言いました。
この時は、顔を上げると、大きく手を開けたマイクの前腕が見えました。わたしは笑い出してしまいました。「片手でわたしを引っ張り上げるつもりなの?」と尋ねました。
彼は「もちろん!」と自信満々に言いました。わたしたちはしばらくこのアイデアの相対的な利点について議論しました。わたしはマイクに、ロープにつないだまま岩の割れ目に詰まっている状態で、テコ装置もなしにわたしを引き上げることは不可能だと伝えました。しかし、マイクはそれができると言い張りました。スパニッシュ・モス洞窟ではなく、マリオット・センターからこの話をしていることから、その議論で誰が勝ったかを想像できると思います。
再び顔を上げると、わたしは本当に永遠に洞窟にいたくないという気づきで胸が締め付けられそうになりました。家に帰りたかったのです。このことに気づけたおかげで、マイクを信頼し、手を伸ばす勇気を得ることができました。ドーム状の天井からぶら下がっていると思いきや、すぐに狭い割れ目に挟まり空いている手で登高器にしがみついていました。ようやく腕を休ませることができました。
そうして、マイクの落ち着いた自信に満ちた声が、わたしを曲がりくねった出口へと導いてくれました。「片手を底上げて。足をもっと左へ伸ばして。そのつかまれる場所で手を交代して。足を使って。もう少し伸ばして。」
最後の難題に遭遇するまで、マイクはわたしを正しい方向に導き続けてくれました。わたしは背が低いため、次の手掛かりに手が届くことができなかったのです。それに、臆病すぎたせいで、飛んで掴むことも出来ませんでした。マイクは隙間にいたわたしを通り過ぎて、手がかりに手が届くようにわたしを下から押し上げることを提案しました。この作戦がうまくいくかどうか分かりませんでしたが、この時点で、わたしは彼の指示に耳を傾けることが出来るほど謙遜になっていました。マイクは何とかわたしの横を抜けて行く方法を見つけ、わたしの下にある壁で体を固定しました。次の手がかりに届くため、彼の背中を踏み台として使うようにわたしに言ったとき、わたしは自分が彼の背中の上に立つ姿を想像しました。彼の手がわたしの重みで岩から滑り、体が洞窟の天井の穴を通り抜けて落ちる姿が目に浮かびました。そこで、また彼の奇抜なアイデアの利点について議論しました。(わたしはかなり頑固な人ですが、)結局、背中の上に乗ることにしました。彼がしっかりと支えてくれたので、手がかりに届くことができました。そこから、外に出るために比較的、簡単な登攀をしてから、マイクが他の人を助けに戻っている間、すぐにわたしは一人で物思いにふけっていることに気がつきました。
丘の頂上に座り、谷を見渡すと、洞窟の底での誇らしい瞬間とは対照的に、敗北感を抑えることができませんでした。たった今起こったことをすべて思い返しました。マイクは本当に15メートルほどの落差からわたしを引き上げたのか?わたしは本当に彼の上に乗ったのか?わたしは本当にそれほど多くの助けを必要としていたのか。その答えはそれぞれ、「はい、はい、はい」でした。
わたしたちは誰でも多くの助けを必要としています。皆さんはおそらくスパニッシュ・モス洞窟でわたしよりもうまくやることができていたかもしれませんが、わたしたちは皆、力、知識、能力、さらには望みが足りない状況に置かれるときが、いつか訪れるでしょう。このようなときこそ、もし自分の手を放して主の手を掴もうとすれば、救い主がわたしたちを暗闇から引き上げてくださいます。このような時こそ、注意深く耳を傾ければ、主の声が安全な場所へ導いてくださるのです。そして、このような時のために、主はあらゆるものの下に身を落としてくださったのです。それは、皆さんの足がかりになるためです。
わたしはジェフリー・R・ホランド長老の次の言葉が大好きです。
「わたしのもとにきなさい」という主の御言葉は、苦しみから人を救い、さらに成長させる方法を主はご存じだということを意味しています。主が救いへの道をご存じなのは、主御自身がそこを歩まれたからであり、主は道そのものだからです。〔『壊れたものを元どおりに』2006年5月リアホナ 原文強調〕
最近、わたしはマイクに、あの日わたしを洞窟から出せるかどうか心配していたか尋ねました。彼は答えを考えることもなく即答しました。「いや、計画は常にあったよ。あの時、君が見たこともなかったような装備をたくさん持っていたんだ。いつでも方法はある。時には、自分の努力の割合が5%、相手の努力は95%ということもあれば、99%が自分、相手は1%ということもあるかもしれない。それでも、相手が提供できる限りのもので何とかすることが。」
わたしたちの救い主も同様です。主の助けを進んで受け入れれば、あなたが提供できる限りのもので、主は何とかしてくださいます。
中央日曜学校会長会のブライアン・K・アシュトンは、「悔い改めは、完全な生涯を送るという計画が失敗したときのための代替策ではない」ことを思い起こさせてくれました。また、次のようにも述べています。「(悔い改めは)大きな罪のためだけに存在するのではなく、日々の自己評価と自己改善の過程であり、わたしたちの罪や、不完全さ、弱さ、欠点を克服する助けになります。」(『‘キリストの教義』2016年11月リアホナ〕
完全な生涯を送ることは計画ではありません。悔い改めこそが計画なのです。イエス・キリストこそが計画なのです。わたしたちは誤って完全さを、全く失敗をしない、もしくは、不足することがない完璧な人生と同等に考えると思います。しかし、それを果たされた御方、または、これから果たされる御方者はイエス・キリストのみなのです。ですから、わたしたちにとっての完全さとは何か違うものでなければなりません。
ジョン・S・ロバートソンは、BYUの説教で、わたしたちが「完全」の言葉に関する理解が過去400年で変化したと説明しました。現代では「完全」を「欠点のない」という意味で使いますが、その語源であるラテン語では「完成した」という意味に近かったそうです。さらに、聖書で「完全」と訳されているヘブライ語の言葉は、「完成した」と翻訳した方が、より正確だったかもしれません (“A Complete Look at Perfect,” BYUディボーショナルでの説教、1999年7月13日)。わたしたちにとっての完全さは、欠点がないことではなく、完成した状態にあることです。
金継ぎという日本発祥の工芸技術を用いる芸術家は、陶磁器の破損部分を金、銀、またはプラチナで作られた漆で修復し、破損した部分を美しく無傷なものにします。金継ぎは傷跡を隠すべきものではなく、むしろ、傷跡の独特な美しさを賞賛すべきだと教えています。傷跡自体が貴重と見なされているため、その価値を称えるために貴金属で修復しています。修復された作品は、元の無傷のものよりもさらに美しいのです。
同様に、わたしたちは救い主の傷跡を敬います。主は、その手のひらにわたしたちを彫り刻まれたからです(イザヤ49:16参照)。主は御自分の傷を恥じてはおられません。それどころか、主はわたしたちに次のような招きを与えておられます。
「立ってわたしのもとに来て、あなたがたの手をわたしのわきに差し入れ、またわたしの両手と両足の釘の跡に触れて、わたしが…全地の神であること、そして世の罪のために殺されたことを知りなさい。」(3ニーファイ11:14)
わたしたちが、自分の砕けた破片を救い主に預ける時、わたしたちの割れ目は主の完全さゆえに主によって埋められ、わたしたちは完成したものになります。わたしたちは「信仰の導き手であり、完成者」である偉大な創造主の回復力によって完成されます (ヘブル12:2)。救い主の傷を単に認識し、敬うだけでなく、自分自身の傷を認め、敬うことによって救い主を知るようになります。わたしたちは互いの傷を通して救い主に結ばれており、「その打たれた傷によって、われわれはいやされた」のです(イザヤ53:5。4節も参照)。
ホランド長老の言葉を繰り返します。
孤独を感じたら,慰めが得られることを思い出してください。落胆したら,希望が得られることを思い出してください。心が貧しいならば、力が得られることを思い出してください。打ちひしがれたと感じたら、修復を得られることを思い出してください。〔『壊れたものを元どおりに』〕
世界の救い主であるイエス・キリストは、壊れた部分を修復し、空いている部分を埋め、より美しく、完全な器にしたいと望んでおられます。
皆さん一人が失敗する力を見出し、救い主の成し遂げる力を見出すことができるようにイエスキリストの御名によって申しげます、アーメン。
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経理学部の教授であるキャッシー・バッドは2017年2月14日にこのディボーショナルを行いました。