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ディボーショナル

愛は盲目ではない:信仰と曖昧さに関する大学生のためのいくつかの考え

リックス・カレッジ学長

1979年1月9日

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霊感あふれるビデオ
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ですから、兄弟姉妹の皆さんにお願いしたいのは、大学に通う私たちがどんな不確実性に遭遇しようとも、立ち向かうのに十分な正直さと勇気を持ち、問題を理解し、その問題を解決するように努力することです。


必要に応じて翻訳を修正します。何かご提案があれば、speeches.jpn@byu.eduにご連絡ください。

オークス長老、ありがとうございます。このキャンパスに戻ることができ、とても良い気持ちです。私たちの子供たちに「どこから来たのか」と尋ねれば、彼らはやはり「プロボから」と答えるでしょう。そのことがあと何年続くかはわかりませんが、私たちは子供たちに早くレックスバーグに馴染んでくれることを願っています。プロボとレックスバーグには多くの共通点がありますが、その中でも特に、これら2つの都市に2つの素晴らしい大学があることです。私は、BYUの皆さんのRicks Collegeに対するサポートや心配に気付き、私にとっての充足感の源になっています。BYUの方々には、Ricksの人々が皆さんの関心に感謝していることを知ってもらいたいです。

また、近年教会の学校に通う生徒たちについて聞いたことを皆さんと共有し、敵の言動に注意を払いたいと思います。この州の別の学校を卒業した私の友人は最近、鶏、愛国者、そして教会の大学に通う女の人の違いを知っているかどうか私に尋ねてきました。私はその違いはわからないが、その質問についてずっと疑問に思ってきたと伝えました。

そうすると彼は、「鶏は『コック・ア・ドゥードル・ドゥー』〔コケコッコー〕と言い、愛国者は『ヤンキー・ドゥードル・ドゥー』と言うが、RicksやBYUの女の子は『エニー・デュードル・ドゥ』〔どんな男でもよい〕と言う」と言いました。 これは明らかに、数年前にここプロボで妻にプロポーズした時を除いて私たちには当てはまりません。少なくともその当時は、その発言が真実であったことに感謝しています。

兄弟姉妹の皆さん、今日の私のスピーチのタイトルは、シンプルで私の意図が分かりにくいかもしれませんが。スピーチが終わる頃にはそれがはっきりと伝わるようにと願っています。そのタイトルは「愛は盲目ではない」です。

法学部の学生時代、妻と私は学生ワードに通っていましたが、そこでは教会員のほとんどが大学院生でした。私たちは、知的分析といった技術を学ぶにつれ、理解力をより深められたことを経験し、また、結婚や子供を産むなどの経験を通して主に近づきました。そして、私たちと同様に同じ経験をしていた多くの人と親密な関係を築きました。

ある日曜日の朝、私たちのワードの長老定員会は霊的な暖かさと個人的なオープンさを特徴とする特別な証会を開きました。その集会で、法学部の学生仲間が執事に聖任された直後の少年時代の経験を話しました。彼は農場に住んでいて、まもなく生まれてくる子牛を自分の子牛にして育てることを約束されていました。ある夏の朝、両親が留守の間、彼が納屋で働いていると妊娠中の牛が早産し始めました。小さな子牛が生まれるのをとても驚いて見ていると、何の前触れもなく、母牛は突然小さな子牛の上に転がりました。母牛が子牛を殺そうとしているのがわかったのです。彼は心の中で主に助けを求めて叫びました。母牛の体重が自分よりずっと重いことを考えずに、全力で母牛を押し、どうにかして母牛を動かしました。彼は子牛の死体を腕に抱き上げ、涙が頬を伝い落ちながら悲しみを感じ、何が起こったのか、自分に何ができるのかを考えながらその子牛を見つめました。それから彼は自分は今や神権を持ち、さらなる助けを求めて祈る権利があることを思い出したと言いました。そして、少年のように信じ、心の底から祈ったのです。やがて子牛は再び息をし始め、自分の祈りが聞き届けられたことを知りました。

その話をしてから彼の目には涙があふれてきて、「兄弟たちよ、私がその話をしたのはあの時私がしたことを今やるとは思えないからです。そのような状況では、今になっては主の助けを期待しないかもしれません。たとえあの経験をまた体験したとしても、子牛が生き延びたのは単なる偶然にすぎないことを信じるかどうかわかりません。あの時以来、私に何が起こったのかはわかりませんが、何かが少し変わってしまったような気がします」。

長老定員会の私の友人は、主への信仰を失ったとは言いませんでした。むしろ、彼は単に素直に自分の経験の子供らしい側面と洗練された側面の両面をわたしたちに分かち合ってくれたんだと思います。この話は、私たちの多くが大学時代に独自の方法で経験する考えや感情を反映しています。これらの考えや感情は、精神的および知的成熟に向けて成長するための重要なものであり、大学教育のメリットと限界の両方を理解する上で大切です。

大学に入学する前は、私たちの多くは物事を白か黒かで考えており、私たちの視点の知的または精神的な側面にはほとんど灰色はありません。したがって、BYUやリックス・カレッジのような場所の新入生のほとんどは、他のどの学生よりも教えやすく、親しみやすく、素晴らしい子供のような楽観性と忠誠心を持っています。リックス・カレッジで多くの若者と関わることができたことは、私の人生の大きな祝福の一つだと考えています。これらの若い男女の教授を信頼し、読んだことを信じ、教会の奉仕活動への責任に限りない熱意をもって応えるというようなこれらのすべての行動は、彼らにとって普通なことです。新入生が大半を占める学生ワード以外で、ビショップから讃美歌のコーディネーターとして、あるいは扶助協会の日曜の朝の「オレンジジューススペシャリスト」として召され、これほどわくわくしている教会員がいるでしょうか。ある帰還宣教師が言ったように、新入生と二年生が大半を占める学生ワードの良い点の一つは信仰や悔い改めなどの話題が議論に持ち上がると、誰もあくびをしないことです。

しかし、時間が経つにつれて新しい経験が学生の視点に新しい面をもたらすかもしれません。一般的にこの新しい面というのは、現実と理想の間、つまり、あるものとあるべきものの間に、ある種のギャップがあるという認識が高まるということです。説明するために、皆さんに一つの円の中にまた別の円が組み込まれているのを思い描いてもらいたいです。内側は現実、あるがままを表します。外側は理想、またはあるべき姿です。私たちは内側に立ち、手を差し伸べ、決意をした理想に自分を引き寄せようとします。私たちは自分自身に、または自分が目撃する状況にあるべき姿と相違があると感じる時、この二つの境界線との間の距離が大きいことに気づきます。その時、苛立ちを感じるかもしれません。私が意味することを例を挙げて説明しましょう。

教会の大学に通う学生はレッドテープマーシン(繁文縟礼)と大戦をし、敗北したり、学生ワードのビショップに何週間何ヶ月も無名のままでいたり、教会への決意が疑わしいと思われる教会員と議論したりした時に、幻滅に苦しむかもしれません。そのほかに個人的、霊的な面では、祈りが答えられないまま長引いたり、成績や健康、結婚の見通しなどで壊滅的な挫折を味わったりするかもしれません。さらに天は必要な時に閉じているように感じるかもしれません。また両親、他の教会員、さらにはビショップやステーク会長など、他の人の不完全さをますます意識するようになるかもしれません。歴史家が言うように、英雄であった人々を勉強すればするほど彼らの人間的な限界が見えてくるかもしれません。また、学生は教会における女性の役割や教会員の政治的な見解の違いなど物議を醸す問題にも直面するかもしれません。

宣教師もまた、理想と現実のギャップに遭遇することは珍しくありません。おそらく新任宣教師が、一般的に、かつてないほど理想的な決意をしているからでしょう。しかし、彼らは最も勇敢な努力にもかかわらず、前向きな心構えの約束された成果がどういうわけか得られない場合、失望の涙を何度もこらえていることに気付くかもしれません。自分がやろうと決めたことは何でもできるという考えには限界があるかもしれないと初めて気づいた瞬間には、ある種の痛恨があります。私はかつて、中学史上最高の砲丸投げ選手になるという決意で、その命題に全力を尽くしました。しかし、私は単に体格が小さかったので、実際にそうなる見込みはありませんでした。

このような経験は混乱や不確実性、つまり曖昧さを生み出すことがあり、物事がより明確で、シンプルで、簡単で、個人のコントロール下にある昔を懐かしむかもしれません。またこのような経験は懐疑主義、批判、権威者あるいは今や手の届きそうにない理想に手を伸ばすという招きに応えたくない気持ちなどの始まりをもたらすかもしれません。誰もが私が述べてきたことに遭遇するわけではないですし、誰もがそのようなことを経験しなければならないと示唆するつもりはありません。しかし、大学生はおそらく他のどのグループよりも「曖昧さ」に遭遇する可能性が高いでしょう。

回復された福音の根本的な教えは、強力で、明確で、曖昧さがありません。しかし、時折聖典を研究するときでさえ、曖昧さに遭遇する可能性があります。例えば、聖書の記録を得るためにラバンを殺したニーファイの場合を考えてみましょう(1ニーファイ4:5-18参照)。「殺すなかれ」(出エジプト記20:13)という戒めを与えられた神ご自身が、ニーファイに例外的な指示をされたことに読者が気づくまで、この状況は曖昧さから解放されません。

また、ペテロが、主であるイエス・キリストを知らないと言い、三度も連続して否定した夜の場合を考えてみましょう(マタイによる福音書26章参照。マルコによる福音書14章;ルカによる福音書22章;ヨハネによる福音書18章)。私たちは通常、ペテロを臆病者で、その決意は救い主の弁護に立ち上がるほど強くなかったとみなしますが、スペンサー・W・キンボール大管長が、ペテロの状況について別の解釈をされているのを聞いたことがあります。1971年にこのキャンパスで行われた説教で、当時十二使徒定員会の会員であったキンボール大管長は、ペテロが雄鶏が鳴く前にペテロを三度否定するだろうという救い主の言葉は、ペテロへの要求であり、予言ではなかったかもしれないと述べられました。イエスは、十字架に掛けられた後の教会の強い指導力を保証するために、使徒長に自分との関わりを否定するように指示していたのかもしれませんと。キンボール大管長が聞かれたように、ペトロがゲッセマネの園で立ち上がり、衛兵の耳を切り飛ばした時に見られた、ペテロの大いなる大胆さを疑う者はいるでしょうか。キンボール大管長は、この見解を唯一の解釈として捧げられたわけではありませんが、検討されるべき、十分な正当性があると指摘されました。では、ペテロは弱虫だったのか、それとも教会の存続にとって非常に重要だったので、命を危険にさらすことを禁じられていたのか、その答えは何でしょうか。答えはまだ明らかではありません。これは聖書の出来事であり、そこには私たちの完全な理解を妨げる曖昧さがあります。

他の聖句を比べてみましょう。主は、罪をほんのわずかでも見過ごしにすることはない(教義と聖約1:31)とおっしゃいましたが、他の箇所では、姦淫した女には:「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか。わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように(ヨハネ8:3-11参照)。確かに正義の原則はあるが、憐みの原則もある。時に、この二つの正しい原則は、贖罪という統一的なより高度な原則がその働きをなす中で、互いに衝突します。神が、私たちが自分を治めるための正しい原則を与えてくださったとしても、それを私たちの人生の特定の状況に適用するのは必ずしも容易ではありません。

私たちは、家族、教会、地域社会、そして職業上の関心事に対する義務を果たそうとする中で、そのプロセスの具体的な例に毎日直面しています。このコミュニティに住み、何人かの子供がいて、責任ある教会の役職に就き、多忙で忠実な夫を持つ若い母親は、自分の人生で何をいつ最初にすべきかを決めようとした時、困惑をあらわにしました。彼女は「主の御業を第一に考えなさい」と言われました。

彼女はこう答えました「しかし、それがすべて主の御業であるとしたらどうでしょうか?」

同様に、私と妻は、子育てに関するどの本にも予想されていなかった4000の出来事で、子供たちとどのように向き合うべきかをしばしば考えてきました。時には、私たちのどちらかが何をすべきかについて明確な感情を持っていることもありますが、私はしばしば、彼女に強い確信と完全な信頼を持って、「あなたが正しいと思うことをしてください」と言っていることに気づきます。

教会や家庭生活だけが、必ずしも正しい答えがわからない分野ではありません。曖昧さの意味について考えてみると、もう一度ベトナム戦争を思い浮かべるかもしれません。わが国は、それ以上のことをしようとすべきだったのか、それとももっと少なくすべきだったのか。あるいは、私たちが持っているものをすべて売り払って、飢えている何百万人もの人々に余剰分を寄付すべきかどうかを考えるかもしれません。また、ビジネスや私生活への政府の介入はどの程度ではやりすぎなのか、自問自答をするかもしれません。これらの質問の両極端にいる人々は、何をすべきかについて大きな確信を持って伝えようとしています。しかし、これらの人々の中には、自分が正しいことよりも、確実であることに関心を持っている人がいると思います。

曖昧さの自然さを説明するために、もう1つの豊な分野に目を向けると、アーサー・キングの「真に偉大な文学作品は、人間の問題について何らかの深遠な問題を提起し、その問題を巧みに深く探求し、読者に解決を委ねる」という言葉を思い出します。彼は、解決策があまりにも明確、または簡単すぎると思われる場合は、文献があまり良くないか、それを読んでいる人がポイントを見逃しているかのどちらかであると付け加えました。例えば、ドストエフスキーの小説『白痴』は、真のクリスチャンが無私に愛することは可能かという問題を真剣に提起しています。物語の主人公は、2人の異なる女性を2つの異なる方法で愛する純粋で善良な人です。彼は一人の女性をほとんどの男性が女性を愛するように愛し、彼女は彼を気遣い、彼を助け、そして、彼は彼女に恋愛的にひかれていて、彼女は彼の人生をとても幸せにすることができます。もう一人の女性は、哀れなほど不適当な人ですが、彼が彼女を愛するのは、彼女が彼を必死に必要としているからであり、彼が思いやりのある心を持っているからです。ドストエフスキーは、この二人の女性のうち、どちらと結婚すべきかというジレンマを提起して、人間がキリスト教の無私な理想に正直に携わることは可能かどうかを問っているように思われます。ご想像のとおり、彼は大きな疑問を未解決のまま残し、読者自身に問題を考えさせるのです。

私はこれまで意図的に、私たちが求める答えが期待するほどすぐには明らかではないさまざまな例を示唆しようとしました。私が言いたいのは、いくらかの不確実性は私たち人間が経験する当然なものです。リーハイの夢に述べられている暗闇の霧は、まさに、私たちがこの惑星で直面している人生を象徴的に表現しているのです。もちろん、リーハイの夢の中の鉄の棒が見事に表現しているように、多くのことは非常に確かで非常に明確です。しかし、特に大学教育を追求する人にとっては、曖昧さのトピックは議論に値するのに十分な複雑さがあります。

では、私たちのほとんどが、自分のいる地点と期待する地点の間にギャップがあること、そして、少なくとも人生において困惑を招く経験をするうえで、私たちは何をすべきなのでしょうか? 私は、曖昧さに対処するには3つの異なるレベルがあると考えています。他にもあるかもしれませんが、今回は3つに分けてお話ししたいと思います。

レベル1には2つの典型的な態度があり、そのうちの1つは、存在する問題に気づいていない、あるいは気づくことができない、というものです。中には、現実と理想の間のギャップを意識的に排除している人もいるようです。このカテゴリーに属する人々は、福音の最高の状態が、固い握手、熱烈な挨拶、そして笑顔のボタンである人々です。彼らの伝道の経験は最高であり、学生ワードも最高で、新しい毎日がおそらく彼らが今まで経験した中で最高の日になるでしょう。これらの陽気な人は、幸せで、自発的、楽観的に、いつもなんとか気楽に過ごしています。彼らは、より悲観的なタイプには手ごわいと思われる多くの試練を乗り切ることができますが、その理由は、嵐が起こっていることをどういうわけか聞き逃したからではないかと疑問に思います。

レベル1の2番目のグループは、あるものとあるべきものの間のギャップについて、まったく異なる問題を抱えています。このカテゴリーの人は、現実という内側にあたる円を消し去ることによって、現実と理想の間の距離を感じることで生じるいらだちを取り除きます。彼らはひたすら理想にしがみつくので、自分自身、他人、または自分の周りの世界について真実に直面することから来るはずの痛みを避け、感じなくても済むようにしています。BYUやRicksの学校新聞の編集者に宛てた手紙で、ある人や組織の一部が完璧さに欠け、書き手が「主の大学では絶対にない」と驚愕しているのは、このカテゴリーの例だと思います。このグループの人々が経験する問題の1つは、非常に重要な欠陥とそれほど重要ではない欠陥を区別できないことです。ヒュー・ニブリーは、朝9時に起きて良い本を書くよりも、朝5時に起きて悪い本を書く方が立派だと考える人々について語ったとき、この人々を念頭に置いていたに違いないと思います。ニブリー兄弟にとって、私たちが何時に起きるかは、起きてから何をするかほど重要ではないことは明らかです。

今述べた2つのタイプの人のうち、どちらが彼らの模倣に最も適したモデルを提供しているかについて学生のグループが話し合っているのを聞いたことを思い出します。彼らは、福音に対してリラックスして、幸せで、のんきになるか、強烈な完璧主義者になるか、どちらかを選ばなければならないと感じていました。話を聞いてみて感じたのは、どちらも同じ限界を抱えているということです。完璧さへの必死の関心と、強制的な表面的な幸福のどちらかを選択するのは、あまり選択の余地がありません。どちらの視点も深みに欠けており、その支持者は物事を考えずに理解する傾向があり、経験から結論を導き出すことが多いのです。どちらのタイプも逆境への備えがあまりできておらず、最初に吹いてきた強風で両方が吹き飛ばされるのではないかと心配しています。これは、彼らの根が経験の土壌に深く沈んでおらず、確固たる基盤を築いていないからだと思います。どちらもまた、常識のない哲学の薄さを反映しています。どちらの場合にも、人生の経験についてより現実的になることは、たとえそれが少し不快な疑問や限界に直面することを意味するとしても、単純に役に立ちます。その違和感こそが、真の成長への動機づけになり得るのです。ある人が語ったように、真の教会は苦しんでいる人を慰めるだけでなく、心地よく過ごしている人を苦しめるためにあります。

それでは、物事をあるがままに見るレベル2にステップアップすることをお勧めします。そこでは、皆さんは有意義で建設的な方法で物事に対処することができるからです。

もし私たちが、遭遇する不確実性に正直かつ勇敢に立ち向かうことから来るいらだちに進んで立ち向かわなければ、私たちは究極の準備に必要な霊的成熟を決して発達させないかもしれません。ヒーバー・C・キンボールはかつて、教会には、まだ通り抜けなければならない多くの道があり、その日が来れば、借り物の光で生きている人々は立っていられないだろうと言いました。したがって、私たちは、人生にやってくるアイデア、機会、または人々の価値について、自分自身の判断をする能力を開発する必要があります。なぜなら、新しいアイデアには、教会が承認の印を押せたかどうかを示す小さなタグが付けられているとは限らないからです。音楽、本、友達、奉仕の機会など、さまざまな「徳高いこと、好ましいこと、あるいは誉れあること」(信仰箇条13条)が存在しますが、これらは教会の手引きや授業の課題になったりしません。よく知られている教会の仕事やプログラム以外の人生の経験に参加しようとしない人は主が意図しておられる豊かで有意義な人生を送らないでしょう。私たちは、人生に起こりうる逆境と矛盾の矢や旋風に対処する準備として、十分な判断の独立性と視点の成熟を発達させなければなりません。そのような時が来ると、私たちは借り物の光で生きてはいけません。私たちは、実際には明確ではない状況を明確だと説明されているラベルに惑わされないようにしないといけません。現実と失望との出会いは、実は私たちの成熟と理解の発達における重要な段階なのです。

私が話してきたこのレベル2の意識の価値にもかかわらず、いくつかの深刻な危険が残っています。不確実性の雲を受け入れると、鉄の棒が後退し、霧の中に消え去り、懐疑主義が人生を導く指針となる恐れがあります。多くの場合、この視点は、理想やあるべき姿を表す外側の円を消し去ること、現実の内側の円に過度に焦点を当てることから来ています。私がBYU法科部で教師をしていたとき、1年生の間に、私たちの法制度が厳格な規則ではなく、しばしば互いに矛盾しているように見える法的原則によって特徴付けられていることを発見し、大きな苛立ちを経験することがいかに一般的であるかに気づきました。

例えば、1年生の学生が、学期の初めの頃の授業の後、法律の勉強で遭遇した混乱を私に話してくれたことを覚えています。彼は、自分が「曖昧さに対する許容度の低さ」と呼ぶものを持っていて、自分の問題の一部は、数週間前に伝道から戻ったばかりで、すべてが鮮明で明瞭で、話すべき言葉さえも用意されていたことにあるのではないかと考えていたと言いました。伝道中は、成功するためにしなければならなかったのは、毎日与えられたタスクをやり、段階を追った計画に従うことだけでした。BYUの法科部では、何をすべきかを教えてくれる簡単なガイドラインを探し求めながら、自分が完全に海にいるように感じていました。彼の状況は、私が先ほどお話した、大学の初期に立つ大学生の典型的な姿のもう一つの例です。

しかし、法学部の学生が3年生になる頃には、曖昧さに対する高い寛容さを身につけ、信仰のいくつかの側面を含め、すべてに懐疑的になることはまったく珍しくありませんでした。彼らは以前、すべての答えを持っていると感じながらも、質問が何であるかを知らなかっただけですが、今ではすべての質問を持っているように思っているが、答えはほとんど持っていない状態です。時には、私は法科学部3年生の学生に、懐疑主義や公平な分析といった磨かれたツールにあまりにも喜ぶ人は、教会や別の場所における働きを制限すると言いたくなるのです。なぜなら、争いの感情、冷淡、高慢などにより、教会やその他の場所に貢献しないからです。

私は、これらの人々のうち何人かが、神権定員会や日曜学校のクラスのような場所で、これらのツールを試しているのを見てきました。善意のある教師が、少しばかげた発言をするとき、学生が立ち上がって、教師のバブルを破裂させる〔教師をがっかりさせ、正さなければいけない〕という抑えきれない気持ちを感じるかもしれません。もしそこで成功すれば、学生は、誰かが述べるルールの例外を指摘する他の機会を探し始めます。彼らは無防備な人々の反対尋問に喜びを感じ始め、他人の浮かんでいるバブルを新しいピカピカと光る針を刺して破裂する〔他人をがっかりさせる〕機会を探し求めるのです。しかし、彼らはそれらのバブルが弾けると、空気が消えることに気づきません。そして、それとともに、主の御霊を保つのに不可欠な信頼、忠誠心、調和、誠実さも消えます。

もし、皆さんのワードや家庭、あるいは結婚生活の中で、そのようなことが起こり始めたら、皆さんは、すべての愛情のある関係において私たちを結びつけている信頼の脆弱な構造を破壊し始めているかもしれません。ワードの会員は、皆さんとの出会いから、教会に深く決意を持っていると言いながらも、それと正反対の行いをすることを疑問に思ってしまうかもしれません。

私は、いつも笑顔でうなずいて賛同し、すべてが素晴らしく、最高の希望は誰もが良い一日を過ごすように行動すべきと言っているのではありません。それがレベル1に値する行動なのです。私は、大学教育が思いや他人との接し方にもたらす、悪と善の可能性を認識するよう勧めています。

わたしが話す危険というのは、他人との関係に限ったことではありません。これらの経験は非常に個人的なものになり、不健康な方法で私たち自身の心を詮索する可能性があります。曖昧さを認める能力は、強化の最終的な形態ではありません。答えるのが難しそうに思える質問に対しては、一時的に判断を保留する意志を認め、より大きな寛容さと忍耐力を身につけた上で、注意していなければ、教会に対する私たちの基本的な姿勢が次第に積極的に活動する姿勢から躊躇する姿勢へと変化していく恐れがあります。これは健全な姿勢ではありません。こうして、積極的に活動する段階から躊躇する段階に変わってしまった教会員は、これまで基本的な決意を経験したことのない人よりも悪い立場にあります。曖昧さに対する高い寛容さを身につけた、以前は献身的だった人は、物事を判断する際に、すでに「前向きな心構え」のルーティンを経験しており、今は「もう知っている」と思い込みがちです。そのような人は、従順で、柔和で、謙遜であることは、すでに慣れ親しんでいる事柄であり、再びそのようになろうと一生懸命働く必要はないと思い込むかもしれないからです。兄弟姉妹の皆さん、これらはかたくな心の思い込みです。

私はかつて、「現実的であること」に対する高度に発達した寛容さが、私たちの生活における御霊の働きを妨げる可能性があることの大きな教訓を教えてくれた経験がありました。それは、ドイツで1年ほど伝道をしていたとき、ニューヨークからフランクフルトへ向かう飛行機の中で、スチュワーデス全員を改宗させたばかり(彼がはそう思っただけかもしれません)のキーラー長老という新しい宣教師と一緒に働くことになりました。彼が到着して数日後、私は別の町での集会に呼ばれ、彼を残して、私と同行したもう一人の経験の浅い宣教師と一緒に町で働くことになりました。私はその夜遅くに帰ってきました。

翌朝、私は彼に昨日の一日の様子を尋ねました。彼は満面の笑みを浮かべて、必ず教会に入る家族を見つけたと言いました。私たちの伝道部では、家族全員が教会に入ることはおろか、誰も教会に入ることはめったにありませんでした。詳細を尋ねましたが、名前も住所も書き留めるのを忘れていたと言いました。彼が唯一覚えていたのは、家族が大きなアパートの最上階に住んでいたことだけでした。長い階段を上らなければいけないのを思いながら、「ああ、それはなんと素晴らしい」と私は皮肉に思いました。彼はまた、ドイツ語をほとんど知らなかったので、玄関に出た女性と少し言葉を交わしただけだと説明しました。しかし、彼は彼女が私たちに戻ってきてほしいと思っていると思っていましたので、すぐに彼女を探しに行って、彼女と話をしてもらいたかったのです。私は彼に、宣教師の顔の前でボタンとドアを閉めない人々は、全員が教会に入るとは限らないと説明しました。しかし、彼の機嫌をとるために、私たちは彼女を探しに行きました。彼も正しい道を覚えていなかったので、私たちはエリア内にありそうな場所を選び、その果てしなく続く磨かれた階段を上り下りし始めました。

いらだたしい1時間を過ごしてから、私は本当に彼に正直にならなければならないと思いました。「何ヶ月にもわたる私の経験からすると、その女性をこれ以上探そうとするのは、時間の無駄です。私は宣教活動の現実に対する寛容さを身につけており、伝道のことはあなたよりもよく知っています」と言いました。

彼の目には涙があふれ、下唇は震え始めた。(その長老はけっして頭が悪いわけではなく、バークレーのボールト法科大学を卒業したばかりでした)。私は次に言われた言葉をよく覚えています――彼は涙を浮かべた目を通して私にこう言いました:「ヘーフェン長老、私は誠実な心を持つ人を見つけるために伝道に出ました。御霊は、あの女性が教会に入ると私に告げたので、あなたは私が彼女を見つけるのを止めることはできません。」

それで、私は彼に教訓を与えなければならないと決心しました。私は彼が疲れ果てるまで、次々と階段を駆け上がっていきました。 そして私はキーラー長老に「キーラー長老、もうあきらめるかい?」と尋ねました。

そうしたら、彼は「いいえ、あの人を探さなきゃ。」と答えました。

私はそれを聞いて、うろたえ始めました。彼が「やめてくれ」と懇願するまで、私は彼を働かせることにしたからです――そうすれば、私の伝えたいことを受け止めるだろうと思いました。

そして、長い階段を上りきったところに、アパートを見つけました。彼女は玄関まで来ました。すると彼は肘で私の脇を叩き、大声で囁きました。「彼女だよ。話してくれ!」と言いました。

兄弟姉妹の皆さん、この前、ここから数ブロック先に離れたメープル・レーンというところに、その女性の夫が私たちのリビングに座っていました。彼はマンハイムのワードのビショップなので、総大会のためにここに来ていました。彼の2人の息子は伝道の準備をしています。彼の妻と娘たちは教会の柱です。これは、学習と経験に伴う懐疑主義と曖昧さへの寛容さの限界について、私が決して忘れることのできない経験です。私は「現実」を意識するあまり、天のささやきに応えないようにならないようにと願っています。

したがって、曖昧さに対する最も適した反応は、目を見開いて物事を見るだけでなく、心も大きく開いて物事を見るレベル3にあると思います。そうすると、どうするか決める前にもっと証拠が必要だと感じるけれど、何らかの行動を起こさなければならない状況に何度も遭遇するかもしれません。私は、このような場合に進んで信じ、受け入れることは、盲目的な従順とは全く異なる問題であると主張します。それはむしろ、愛と知識を込めたような従順です。

イギリスの作家であるG・K・チェスタトンは、かつて私が今日提起したような問題に取り組んでいました。彼は「楽観主義者」、「悲観主義者」、「改善者」を区別しました。曖昧さに対処する私の3つのレベルにほぼ該当しています。彼は、楽観主義者も悲観主義者も、物事の片側を見すぎていると言い、問題の存在を認めながらも、それについて何かをするのに十分な真の忠誠心を保持しない限り、人々は問題を解決できないため、どちらも人間の状態を改善するのにあまり役に立たないと述べました。

より具体的に言うと、チェスタトンは、過度の楽観主義者(レベル1)の弊害は、

弁護できないものを守るということです。彼は宇宙のジンゴ〔過激で、好戦的な国家主義者〕です。彼は「私の宇宙、善かれ悪しかれ」と言うでしょう。                                                  彼は物事の改革にあまり興味がないでしょう。むしろ、すべての攻撃に対する集合的で公式な回答のようなものを好み、保証で全員を落ち着かせます。彼は世の中をきれいにするのではなく、うわべだけでごまかします一方、悲観主義者(レベル2)の悪について、チェスタトンは次のように述べています。

「彼は神々や人を懲らしめるではなく、自分が懲らしめるものを愛していないのです」。「率直な友人」といわれる悲観主義者は実際には率直ではありません。「彼は何かを抑えている――不愉快なことを言うことに彼自身の憂鬱な喜びがあるからだ。彼は、助けるのでなく、傷つけたいという密かな願望を持っています」。 彼は、軍隊を強化するために許された醜い知識を利用することで、人々が軍隊に加わるのを思いとどまらせようとしています。

チェスタトンは、”改善者”(レベル3)について述べる中で、女性に言及することで、女性を必要としている人々に非常に忠実である傾向があることを説明している。

一部の愚かな人々は、女性が自国民を支えるからこそ、女性は盲目であり、何も見えていないと考え始めました。彼らのほとんどが女性を知らないでしょう。どんな苦難があろうとも、大切にしている男たちを守る準備ができている女性も、男性の言い訳の薄さや愚かさについて、恐ろしいほど寛容である愛は盲目ではない。けっしてそうではない。愛は束縛されている。そして、束縛されればされるほど、盲目ではなくなる。[G.K.Chesterton, Orthodoxy(Garden City, N.Y.: Deseret Book Co.、 1959年、69-71]

おそらくハロルド・B・リー大管長は、チェスタトンが「すべての偉大な男性の背後には、偉大な女性がいる」と言ったとき、女性についてのチェスタトンの指摘を考えていたのでしょう。

チェスタトンがこれらのカテゴリーを整理したことで、曖昧さへの対処法に人々がもたらす視点の違いを比較するもう1つの簡単な方法が思い浮かびました。私は、讃美歌「取り巻く闇の中を」に描かれている比喩的なイメージを思い浮かべます。レベル1では、人々は「優しい光」と「包み込む暗闇」の両方があることを知らないか、理解できないか、両方を知覚したとしても、両方の間に大きな違いがあることを見分けることができません。一方、レベル2では、その違いははっきりとわかりますが、光と暗闇の曖昧さを受け入れることは、「すべてが完全に暗くなる直前の時間が最も暗いことを覚えておけ」と言われているようで、心から悲観的になるかもしれません。

これらの反応は、レベル3の穏やかで正直な祈りとなんと異なるでしょう:

取り巻く闇の中を導き、闇を遠く来しわれ、助けたまえ 足もとをまもりたまえ、はるかまでと願わず

[讃美歌 52番]

最後に、レベル3に立っていた人の反応を簡潔に説明したいと思います。彼がレベル1を通り過ぎることができたのは、彼の目が、痛みも含めて、物事をあるがままに見るという現実に完全に開かれたからです。しかし、彼はレベル2のリアリズムから、成熟した視点で、大きく開いた目で見たものを、大きく開いた心で感じたものに重要度を許した時に、第3のレベルに移行しました。

この場合の男性は、約15年前に亡くなった私の父親です。この出来事の当時、彼は50代半ばで、職業生活やその他の重要な義務に深く関わっており、一度に数日間、家を離れることが頻繁にありました。彼はとてもつかれていました。彼は昔、ステーク会長会で10年間奉仕し、教会のために他の多くの任務を果たしたこともありました。ある日、彼の友人であるホワイトヘッド兄弟から連絡を受け、ホワイト兄弟がステーク会長会のステーク会長として召されたが、会長会に、父が第一顧問を務めるなら、その任務を引き受けると伝えました。

教会における指導について新鮮な熱意を持っていて、時間のある若いときにビショップの顧問に召されるのはそんなに難しく思わないかもしれません。しかし、当然のことながら、人生の後半になると、多少異なる態度をとるかもしれません。あの日、父が日記に書いた心の内なる思いを、皆さんと分かち合いましょう。

「私の最初の反応は、「もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」であった。私はビショップの会長会に求められる働きについていくらか知っている。それは絶え間ない、地道な動力が必要だ。けっして緩めることもないだろう。私は忙しく、今の状況は私に残された時間とエネルギーを必要としている。いくつかの点で、私には謙虚さと祈りが足らない。私は、教会のすべての決定に疑うことなく従おうと常に望んできたわけではない。しかし、私は教会からの呼びかけにノーと言えるとも感じていないので、今、私の最初の反応に「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と付け加える。全力でやる覚悟だ。終わりのない集会に苛まれる時もあるだろうが、あらゆる点で教会の活動に同調するつもりだ。私は聖人ぶるつもりはないが、義務と責任にたいして心に懸念があってはならないことを知っている。教会の業が第一にならなければならない。什分の一を納め、定期的に集会に出席することは、これまでもそうしてきたので、難しいことではない。しかし、私は、Tribuneを愛するほどに、Deseret News、少なくともDeseret Newsの教会に関する部分を愛さなければならないと思う。もっと頻繁に神殿に参入しなければいけない。私はワードの会員とより親密な関係を持ち、彼らと彼らの問題に純粋に興味を持つ必要がある。私は彼ら一人一人を愛し、彼らが私に対して同じように感じることができるように行動することを学ばなければならない。恐らく、弱い私なりに、私たち中央幹部に期待するように、主の近くにいるように努めなければならないだろう。

控えめな表現に対する私の感謝の気持ちと、父が正直な人だったという個人的な知識が、この発言を実際よりも謙虚に曖昧さに対処する顕著な例にするかもしれません。しかし、彼の発言から、私が受けた教育から学んだ断固たる意志の大切さとと同じ程に、子供のようになりたいと思わされました。救い主イエスキリストがこうおっしゃっいました。「へびのように賢く、はとのように素直であれ」。

ですから、兄弟姉妹の皆さんにお願いしたいのは、大学に通う私たちが、どんな不確実性に遭遇しようとも、立ち向かうのに十分な正直さと勇気を持ち、問題を理解し、問題を解決するよう努力することです。もしかしたら、そのとき、私たちは借り物の光で生きていないかもしれません。私たちは教会を愛しています。私たちの信仰を愛しています。私たちは宇宙のすべてを理解していないかもしれませんが、だからといって私たちの愛が減ることはありません。愛は盲目ではありません。けっしてそうではないのです。愛は束縛されていて、そして、束縛されればされるほど、盲目ではなくなります。イエス・キリストの御名により、アーメン。
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ブルース・C・ヘーフェン

ブルース・C・へーフェン、リックス・カレッジ学長は、1979年1月09日にこのディボーショナル講演をしました。