シェリー L. デュー
生い立ちと教育
カンザス州ユリシーズの農場で育ったシェリー・デューは、「自分でまいた種は自分で刈り取る 」ことを早くから学びました。彼女は生まれつき内気だったものの、後に多くの人々に困難を乗り越え、神の子供としての可能性を認識させる代表的な作家であり、モチベーションを高める話者となりました。
シェリー・リン・デューは1953年11月21日、5人兄弟の長女として生まれ、家業の穀物農場で懸命に働きました。十代で身長が170cmだった彼女は、並外れたバスケットボール選手になりました。しかし、1971年にブリガム・ヤング大学に入学時、彼女の内気な性格が災いし、チームへの入団を断念してしまいました。それから30年経った後に、実は1971年にBYUの女子バスケットボールチームで女性が1人だけ足りなかったことを彼女は知ったのです。彼女はこのことや他の多くの人生経験から、与えられた才能や機会から決して隠れてはいけないことを学びました。
シェリー・デューは大学時代を通じて、他の面においても輝いていました。彼女は才能あるピアニストで、USO(United Service Organizations)の伴奏者としてアラスカ、ヨーロッパ、地中海、アジアを旅しました。彼女はBYUにてアメリカ宗教史を専攻し、歴史学の学士号を取得しました。
キャリアと奉仕活動
卒業後、シェリー・デューはブッククラフト社で出版業の編集者としてのキャリアをスタートしました。1988年、共同編集者としてデセレット・ブック社に転職し、すぐに出版部長、出版担当副社長、取締役副社長へと昇進しました。2002年3月、2つの出版社、イベント部門、デジタル部門、雑誌、映画配給会社、2つの小売チェーン(うち1つは全米に40店舗以上)を擁するデセレット・ブック社の社長兼CEOに就任しました。
シェリー・デューは母校であるBYUに才能を提供し続けており、彼女はBYUマリオット経営大学院国立諮問委員会およびBYUハワイ校学長指導者評議会の一員となっています。また彼女は、国内外に関わらず、著名な場でも奉仕するように求められており、2003年には、ホワイトハウスから国連の女性地位委員会の合衆国代表団の一員として任命されました。さらに彼女は非営利団体「Chapters of Hope」の先頭に立ち、世界の貧困地域に児童書を送るプログラムを立ち上げました。彼女自身、2006年に乳がんの診断を受け、早期発見の重要性について身をもって理解しているため、乳がんの啓発活動にも多大な時間と労力を費やしてきました。
モチベーションを高める話者として、シェリー・デューはアメリカ全土に留まらず、世界各国のステージで感動的な講演を行ってきました。彼女は様々な団体からその貢献・功績を称えられています。生涯功労賞、People of SightからPeople of Vision賞、フリーダムズ・ファウンデーション・アット・バレー・フォージからは金メダル、BYU管理会からは、湾岸地域における著名な公共サービスについての賞、BYUから模範的な女性らしさについての賞などを受賞されました。
教会における奉仕
末日聖徒イエス・キリスト教会の信仰深く、かつ著名な会員であるシェリー・デューの見識と福音に対する証は、世界中の多くの教会員の心を動かしてきました。彼女がまだ43歳のとき、1997年から2002まで、中央扶助協会会長会の第二顧問として奉仕しました。また彼女の著書の中には、エズラ・タフト・ベンソン大管長、ゴードン・B・ヒンクレー大管長らの教会公式の伝記もあります。BYUで行われた彼女の2つの力強いディボーショナルは、イエス・キリストとその大義に対する彼女の献身を表しており、聴衆や読者がイエス・キリストを選び、自分の神聖な可能性を認識する勇気を持つよう彼らを鼓舞しました。