ラッセル・M・ネルソン
末日聖徒イエス・キリスト教会 大管長
ラッセル・M・ネルソン大管長は、医学部時代に「決して人の心臓に触れてはならない」と教えられた運命の日について、しばしば語ってきました。後年、彼は心臓手術を可能にする先駆的な努力の一端を担うことになりますが、実際、ネルソン大管長はその生涯で多くの人の心臓に触れ、修復してきました。彼が予期していなかったのは、証、知恵の言葉、そして感動的な模範を通して、どれだけ多くの心に比喩的に触れることになるかでした。
生い立ちと教育
ラッセル・マリオン・ネルソンは1924年9月9日、ユタ州ソルトレークシティでマリオン・C・ネルソンとエドナ・アンダーソン・ネルソンの間に生まれました。幼少期を通じて両親は教会に活発ではありませんでしたが、ラッセルは時々日曜学校に通い、福音の真理に心を揺さぶられていました。そして16歳でバプテスマを受けました。
ネルソン大管長は高校で、ディベート、聖歌隊、音楽劇、年鑑などの様々な課外活動に参加しました。また彼はピアノを弾くのも好きでした。ネルソン大管長は16歳で高校を主席で卒業し、1945年にユタ大学で学士号を取得しました。
結婚と家族
大学入学早々、ネルソン大管長は大学の演劇に参加し、そこで主役のソプラノ歌手ダンツェル・ホワイトに心を奪われました。3年後の1945年、2人はソルトレーク神殿で結婚しました。二人は長い年月を共にし、9人の娘と1人の息子の10人の子供に恵まれました。
ダンツェルはネルソン大管長を財政難と長時間労働の中、献身的に支えました。またネルソン大管長は、彼女が必要や関心を満たせるように支えました。例えば、木曜日はネルソン大管長が家にいる夜と決め、ダンツェルは末日聖徒イエス・キリスト教会病院でボランティアをしたり、モルモン・タバナクル・クワイアー(現在のテンプルスクエア・タバナクル・クワイア)で歌うなど、彼女は好きなことをすることができました。
両親は子供たち一人ひとりと過ごす時間を優先することにより、愛を示しました。ネルソン大管長は頻繁に出張しなければならなかったので、子供たちの一人を連れて行き、一対一の時間を過ごすことがよくありました。ネルソン大管長とダンツェルは参加を強制しませんでしたが、子供たちは家族で祈り、聖句を学び、家庭の夕べを楽しむことを学びました。家族で雪上スキーや水上スキーを楽しみ、卓球やテニスをしたり、年に一度は乗馬をした。ネルソン大管長とダンツェルは、子どもたちにも音楽への愛を教え、それぞれが楽器を習っていました。
中等教育修了後とキャリア
ダンツェルと結婚して2年後、ネルソン大管長は1947年に22歳で医学博士号を取得し、最優秀成績で卒業しました。そのキャリア選択について、彼は「人間にとって最も素晴らしい職業は母親になることだ」と語っています。「それが私にとって無理なので、第二の職業は医学だろうと考えた。そこでは毎日人々を助けることができる。」
医学博士号を取得後、ネルソン大管長はミネソタ大学でインターンシップを行いました。インターンの後、彼は医学歴史に名を残すことになるチームに3年間在籍しました。このチームは、人工心肺装置を開発し、1951年に初の開心術を可能にしました。この開発によって数え切れないほどの患者の命が救われたのです。
ネルソン医師は朝鮮戦争中の2年間、アメリカ陸軍軍医として勤務し、ワシントンD.C.、韓国、日本を訪れました。マサチューセッツ州ボストンで1年間の研修医生活を送った後、ミネソタ大学に戻り、1954年に博士号を取得しました。その後、ネルソン夫妻はユタ州に戻り、ユタ大学で研究教授および胸部外科レジデンシーのディレクターとして働き、またソルトレークシティの末日聖徒イエス・キリスト教会病院で胸部外科部門の部長も務めました。ネルソン大管長は1955年にユタ州で初の開胸手術を行い、ユタ州はこの画期的な記録を打ち立てた3番目の州となりました。
多くの論文や教科書の章を執筆し、国内外で講演を行い、またいくつかの国内医学会の会長、理事、または委員長を務めました。ブリガム・ヤング大学、ユタ州立大学、スノー・カレッジから名誉博士号を授与され、中華人民共和国の3つの大学で教授職を務め、アメリカ心臓協会、ユタ大学同窓会、アメリカ業績学会から名誉ある賞を受賞するなど、その業績、専門知識、この分野での献身的な姿勢から高い評価を得ています。
教会での奉仕と近年
1964年,ネルソン大管長は,当時十二使徒定員会会員であったスペンサー・W・キンボール長老から、ユタ州ボンネビルステークの会長として召されました。キンボール大管長はこう言いました。「ここで面接した皆があなたは召されたらいいかもしれないと言っているが、あなたには時間がありません。時間はありますか?」
ネルソン大管長は答えました。「それについてはわかりませんが、私には信仰があります!」その信仰によって、彼は患者とステークの会員の両方に奉仕し続けました。1971年に中央日曜学校会長会に召され、1984年に十二使徒定員会の会員として召されました。使徒の奉仕において、ネルソン長老は世界中の教会員にそれぞれの母国語で話すよう特別に努力し、しばしば話の最後にスペイン語、ロシア語、ドイツ語,標準中国語、フランス語、その他の言語で証しました。また毎週の大管長会と十二人定員会評議会では、オルガニストとして奉仕しました。2015年7月、ネルソン大管長は十二使徒定員会会長として召されました。
2005年、最愛の妻ダンツェルが亡くなりました。しかしその翌年,当時BYUで結婚・家族療法の教授をしていたウェンディ・L・ワトソンと結婚し、ネルソン大管長の人生に新たな伴侶と支えが加わりました。現在、ふたりはしばしば共に旅をし、話し、世界中の教会員を励まし、指導しています。
2018年1月、トーマス・S・モンソン大管長の御逝去に伴い、ラッセル・M・ネルソン大管長が末日聖徒イエス・キリスト教会の第17大管長として指示されました。使徒としての30年以上にわたる奉仕は、COVID-19の大流行を含め、肉体的・霊的に教会を導くように彼を備えました。教会の大管長として、イスラエルの民を集め、啓示を求め、霊的な基盤を強めることを含め、教会員に多くの招きを行ってきました。大管長在任中、数々の新しい神殿が発表され、歴史的な神殿の改修も行われました。また、いくつかの方針変更によって、教会は世界的な会員のニーズによりよく対応できるようになりました。
ネルソン大管長は99歳の誕生日を迎えた後の総大会での説教で次のように述べました。「わたしは、1世紀近く生きてきて、何を学びましたか?それは、天の御父の計画がすばらしいものであること、わたしたちがこの世で行うことが実に重要であること、そして救い主の贖罪が御父の計画を可能にするということです」。