ジェフリー・R・ホランド
十二使徒定員会
生涯と家族
1940年13月3日ユタ州セントジョージに生まれたジェフリー・ロイ・ホランドは小さい頃から善をもたらす人でした。ホランド長老は、母から尽きる事のない無私の心と、父のアイルランドの気質を受け継ぎました。周囲からは、ホランド長老がいつも友だちを励まし、楽しことと福音に従った生活のバランスの模範であると知っていました。スポーツがとても上手で、ディキシー高校とディキシーカレッジ大学の代表選手として活躍しました。高校生の時、スポーツをしていたときにパトリシア・テリーというチアリーダーに出会いました。2年の付き合いの後、パトリシアの勧めで伝道に行く決意をしました。そして、イギリス伝道部でに召され、そこでの活動が人生の霊的な転機となり、伝道部会長だったマリオン・D・ハンクスはホランド長老の人生に非常に大きな影響を与えたと伝えました。
ホランド長老は、伝道から帰還すると、パトリシアとセントジョージ神殿にて結婚しました。BYUで行われた特別なディボーショナルではホランド長老姉妹が肩を並べて演説し、結婚してから訪れた困難な時期において、互いに支え合っていたこと話しました。当時3人の子どもがおり、家庭内にいつも信仰があったことを覚えていると話しています。ホランド長老は大学の校長を勤め、ホランド姉妹は若い女性会長会で奉仕をしていた時があり、家庭で有意義な時間を過ごすのはとても難しいものでした。しかし、夫と妻、子どもと親が互いに支え合った結果、ホランド家の子どもたちは必要な時にいつもでも両親はいてくれると感じていました。
教育と仕事
ホランド長老は伝道中に主が自分が教師になるようにと望んでおられることを感じました。伝道後、ブリガム・ヤング大学で英語の学士号、宗教教育の修士号を取得しました。教会教育システム(CES)で数年の勤めを経て、彼は家族と一緒にコネチカット州に引っ越し、イェール大学でアメリカ研究で修士号と博士号を取得しました。イェール大学では、ステーク会長会に入り、そこで教会管理について学んだと言っています。この経験は中央幹部七十人になる前にまた二つの会長会と地域代表者としての奉仕に備えました。
ジェフリー・R・ホランドは、教会の教育理事長とBYUの宗教教育学部の学部長の勤めを経て、1980年から1989年までBYUの第9番目の学長となりました。大学のビージョンは壮大で力強いものでした:「私たちはこの大学におけるあらゆる授業の中で、磨かれ、強められるはずの霊的なよろいを決して見逃してはなりません。そのよろいとは、世に惹かれずとも世にあってよく貢献できるよう助けてくれるものです」。BYUへの多くの貢献の一つとして、学長として務めている間に、中近東研究BYUエルサレムセンターを成立し建てました。ホランド学長はエルサレムセンターの建築を反対する人と直接会い、布教の目的で建てないことで説明し、彼の努力により1988年に土地を借りる契約を結びました。
校長での貢献の他に、ホランド長老は全米独立大学学長協会(AAPICU)の理事長、全米独立大学協会(NAICU)の役員、全米大学体育協会(NCAA)学長委員会委員を勤めたことがあります。また、会社や市民団体の管理会の務めの他に、9冊の本の著者です。ホランド長老は米国ボーイ・スカウトから卓越したイーグルスカウトとして選ばれ、キリスト教徒とユダヤ教徒の相互理解の向上に尽力したことにより、Anti-Defamation League of B’Nai B’rithから”Torch of Liberty”賞を受賞しました。これまで多くの本を出版し、そのうち一冊はパトリシア夫人との共著です。
教会への奉仕
1989年、ジェフリー・R・ホランドはBYUの任務を終え、七十人会に召されました。5年後の1994年、十二使徒となりました。ホランド長老のイエスキリストと回復された福音に対する証と信仰の力は印象的かつ揺るぎないものであり、彼の洞察深い
話しを待っている教会員や教会の友達は多くいます。ホランド夫人はホランド長老についてこう語りました「彼は信じる人です。人や神を信じ、天の御父が私たちに良いことだけを与えられると信じています」。
ジェフリー・R・ホランドは末日聖徒イエスキリスト教会の使徒として召された時、兄であるデニスは驚きませんでした。彼は「ジェフがいつも望んでいたのは、教室で学生に福音を教えることでした」と語りました。「主も彼が望んでいたことと同じことを望んでおられたのでと確信しています。ただ教室の大きさと学生の数が、ジェフの思い描いていたよりずっと大きかったのです。」ホランド長老の大胆、情熱そして雄弁なイエス・キリストの福音の教え方は、多くの人の心を開き、人生をも変えました。